雨をすぎれば

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 青木? と呼ぶと彼は、体をたわませるようにして、床に腰を下ろした。 「悔しいってこういうことなんすかね、先輩引退しちゃうんでしょ? ムカつくなあ」  青木はおれを見ていなくて、試合会場の体育館の、ずっと向こう側に視線を投げていた。彼のうつろいだ黒目を覗いたとき、試合を終えて引退するむなしさや喪失感とはちがうゆらめきが、おれのなかに生まれた。  青木はその後、引退した三年を引き継いで部活動に励みながら、おれとの交流だけは途絶えなかった。進路を美容専門学校に決めていたおれは意外と自由で、青木と頻繁に遊んでいたように思う。  卒業式の日は、雲行きが怪しい天気だった。寒空の下で、青木はおれに言う。 「先輩、俺教師目指すことにした」と。  あっけに取られた。青木が成績優秀とは聞いていたが、素行がいいとは言い難かった。うぇーいな連中ともつるんでいるし、女子にもモテていた。それが教師ときて、あまりにも似合わないので訝しむ。 「え、嘘だろまじか。え、まじで?」 「どんだけ疑うんだよ。まじまじ、大まじ。先輩とバスケすんの楽しかったからさ、教師になって、バスケ部の顧問になるって決めた。だから俺に、頑張れって言ってよ」 「え、なん、なにそれ……」  そのとうとつさと理由に、ぽかんと口を開ける。 「だーかーら、先輩いなくなったら寂しいじゃん。思い出にしがみついてたいっていう俺のいじらしさがわかんねえかな」  気恥ずかしいのか嬉しいのか、あるいは切ないのか、わからないのに無性に湧き上がるものがあって、思わず笑ってしまう。 「はは、ははは! ウケる! ばかかおまえ!」  なんで理由がおれなの? バスケだけじゃなくて? 「えー、なんでよ」 「おまえさ、なんで卒業するおれが頑張れって言うの。立場逆だろ」 「いいじゃんケチ」 「おかしいだろ、先輩卒業しても頑張ってください、だろ」  卒業証書の筒で自分の肩をぽんぽん叩きながら話していると、またあしたも変わらず、ここで会える気がしてならない。三月が過ぎれば四月で、おれはまた三年に戻り、青木は一年。卒業式のエンドロールが永遠に来ない、ずっと続く日々。 「先輩はさ、頑張るだろ」  ぽん。と軽い筒の間抜けな音がする。冬の冷気が抜け切れない空気のなかに、その音だけが、きりりと浮かんで聞こえた。 「俺が言わなくても、頑張るひとだよ」  でも無理すんなよ、俺に心配させないでね。  青木はおれを見下ろし、頭を緩やかになぞる。彼を見上げていることができなくなり、目をしばたかせた。 「最初にカットしてもらう客は俺なんで。何年後? 今から予約しとくわ」 「……おう」  ずるい、泣く、うそだ、エンドロールはやってきた、あしたはもう、会えない。おれは卒業するから。  おれ、青木が好きなんだ。  ぽつ、と鼻の頭に雨が落ちる。空を見上げた青木は、祝福の雨だ、と呟いた。  自分の気持ちに気づいたところでおれは専門学生で、青木はまだ高校生。毎日のように会うことはなくなった。けれど互いに連絡は取り合って、しばらく交流は続いた。とはいえ色っぽい内容などではなく、他愛のない話や、ときどき遊ぶ約束程度のもの。ただそれも、青木が大学に進学し、おれが就職するまでのことだった。時間の流れが、すこしずつ変化しはじめる。おれには社会人一年目の洗礼が待っていて、青木には新しい人間関係と一人暮らし。以前のように、頻繁に連絡は取ることはなくなった。  青木にはおそらく、恋人がいた。と、思う。  おれが就職したのは何店舗も展開する大型店だった。miuの安田店長ともここで知り合い、店長はそこでも店長だった。おれより十七歳年上で、腕は一流。唯一、信頼できる上司だった。
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