雨をすぎれば

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 この店は、美容師あるあるがてんこ盛りのぜんぶ乗せだった。長時間労働はもちろん、働きかた改革なんて異次元の世界で、深夜までレッスンしたあげく早朝出勤してまたレッスン。極端に減った睡眠時間、昼食を摂る暇もなく、休日は週に一度あればいいほうで、休みがあったかと思えば強制参加の講習が入る。  過重労働が原因で倒れた同期も辞めた同僚も多数いたが、オーナーは慈悲も情もなかった。特にアシスタントに対してはひとの尊厳を踏みにじるような罵倒が常だ。病気になったほうが悪い、辞めた人間が悪い、気合いが足りない、甘い、とのたまわれる日々。直角で頭を下げることもベッドに転がった瞬間眠りに落ちることも、おれはこれが充足感だと信じて疑わなかった。反感と異論はイコールで結ばれず、業界への疑惑は技術向上を理由に打ち消した。 「信じる」を体に埋めこむ時点で懐疑の一部だと、このときのおれは知らず。  しかし安田店長だけは牙を剥いた。ローテーションでせめて休憩一時間、週休二日制、俺らの時代とはちがう、そんなんじゃ若いやつは育たない、なんのために大人数雇ってんだ、と苦言を呈した。しかし、オーナーはけっして首を縦に振らなかった。  あるとき、おれは高熱を出した。欠勤は通じないので、営業中は解熱剤で対処した。薬の効果が切れるとふらついた足もとを気力で正す。根性論ってほんとうに存在するんだな、と逆に清々しい。営業後のレッスンだけは店長が計らってくれ、閉店したらすぐに退勤できた。  冬間近で天候が悪く、冷たい雨がしとしと降りしきるなか歩いた。自宅アパートの部屋は寒かった。スニーカーが濡れ、靴下が濡れ、つまさきは震え、背中から悪寒が立ち上るのがわかった。エアコンをつけて布団に潜りこむ。薬飲まなきゃ、と思うのに飲むのは鼻水と涙だった。体が動かなかった。辛くて息苦しくて、この疲労と熱に、ずっと苛まれるんじゃないかと最悪な妄想が巡る。  こわい。この苦しみが、ずっと続いたらどうしよう。  青木に会いたかった。スマホを取り出し、ラインを眺めた。彼の最後の連絡は半年前だ。「先輩元気? また飲もうなー」で止まっている。当時もおそらく仕事に忙殺されていた。加えて、青木には当然彼女がいるのだろう、という決めつけと、想像上の女性に対する妬みが膨張し、返信も放置した。その後、青木からの連絡はなかった。  もういやだ、つらい、たすけて、青木。  はなをすすり、止めどなく溢れる涙を飲む。限界だった。  通話ボタンを押し、すこしの間待った。着信音が長く流れ、もう出ないのだと奈落の底に落ちた。また鼻を鳴らした。 「先輩?」  青木だった。ふたつ歳下の青木は、もう二十一歳になっているはずだ。すこし低い、おれの好きな声だった。 「青木、あおき、しんどい、たすけて、もうやだ」  たすけて。  自然とこぼれ出た言葉と嗚咽で、おれ自身もなにをしゃべっているのか不明だ。 「……先輩今どこ? 家?」  うなずいたけれど、言葉にはならない。沈黙になってしまう。 「わかった、すぐ行く」  スマホが落ちた。ごとん、とフローリングにぶつかった音が、耳鳴りみたいに残った。安堵したのか、意識が遠のいた。すん、と鼻を鳴らしたら、しょっぱかった。  インターホンがしつこく鳴らされて覚醒する。慌てて起き上がって歩いたら、頭がふらついてたたらを踏む。それでも玄関を開け、立っている青木を見た瞬間、糸がぷつりと切れたみたいに崩れ落ちた。息をみだした青木はビニール袋を持っていて、その場にしゃがみこんだおれを支える。掴んだ青木のチノパンは、雨のせいか湿っていた。 「額あつ……」  もう一度ベッドに横たわるおれの額を、青木は遠慮なく触れた。渇いていて冷たい手のひらの動きに、おれは抵抗する術を持たなかった。 「なんか食えそう? てきとうに買ってきたんだけど、うどんとかそういうの」  首を振る。ちょっと動かしても、頭が痛い。青木はベッド脇に腰かけ、息を吐く。
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