雨をすぎれば

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「なあ、そんなんなるまで頑張んなきゃいけねえの? もう辞めたら?」  また首を振る。すると青木は、深く息を吐きながら額に置いていた手を動かして頬を撫でる。冷たい手が、心地よかった。 「青木、おれ、もうすぐ約束守れるよ」 「約束?」 「スタイリストになる試験、今度あるんだけど、受かったら青木の髪、一番に切るって約束」  覚えてる?  熱で気が緩んでいるのか、青木の手の甲の上に自分の手のひらを重ねる。手ぇあつ、と彼は言う。  覚えてるよ。青木はぼやくように呟いた。 「先輩はさ、なんでこの仕事しようと思ったわけ?」  すこし考えた。きっかけは、些細なことだった。 「たぶん最初は、父方のばあちゃん。髪を梳いてあげたら気持ちいいって言ってくれて、次は姉ちゃんかな。うち、おれが小さいときに父親が亡くなってんだけど、母親が小学生のときに再婚してさ。姉ちゃんがふたりできて、そいつらがあれしろこれしろってやっかましくて、でも楽しかったから。そんでだと思う」  口のなかが熱くて、しゃべるのもおぼつかない。ときどき間を開けながら声を繋げていくのを、青木は黙って聞いていた。相槌の代わりに、頬を撫でていた。 「はじめて聞いた。そんな話」 「えー? だって、そんな特別なこと?」 「いや、ちがうけどさ。遠慮とか、なかったわけ?」 「どうだったかなあ、最初はしたんじゃねえ? 覚えてないけど。でも家族なんて元を正せば他人からのスタートだし、次の家族も他人同士だって不都合ないよ。それともおまえ、なんか変な妄想してる? ぜんっぜんちげえから。めっちゃ仲いいし」  そっか、と答えた青木の手が離れかけて、緩く握り返してしまう。熱とはおそろしい。もうろうとしているせいか、大胆な行動に出れるようだ。  でも、急にただよってきた甘いにおいに、はっとする。金木犀のような、深く強調的な香り。何度も嗅ぎ直したけれど、嗅覚が狂っているのか結局わからなくなる。 「先輩やっぱかっけーっすね」 「なにそれ、ばかにしてんの?」 「ちがうって、まじまじ、大まじ」 「ノリが軽いわ」  ちょっと口を尖らせると、青木は視線を下げて口もとを緩める。そしておれが握っている手を握り返した。青木の指さきが、おれの手の甲で遊ぶ。過敏になった皮膚が、ぴりぴり騒ぎ立てた。 「俺はね、大学で心理学習ってて、ちょっと面白いよ」 「へえ、どんな?」 「無意識も感情も、使うのは『私』という個人、なんだってさ」  ゆっくり目をまばたかせると、青木は続ける。 「どんな感情も無意識の行動も、個人が達成したい目的があって成し遂げようするために生じるんだって」 「……なるほど」 「先輩が成し遂げたいのも、そういうもんなんかもね。俺にはとても無理」 「なんで?」 「感情も理屈も、無意識下でなんか存在しねえよ。来たいからここに来てるし、あんたに無理してほしくないからそう言ってる」  ちょっときまりが悪くなり、おれは顎だけ布団に埋めた。 「まあいいや、早く寝ろ。俺はちゃんと、ここにいるから」  離された青木の手は、おれの髪の毛を泳いだ。ぐしゃぐしゃに撫ぜ、最後おだやかに触れ、布団をかけ直してくれた。  うん、おやすみ。  そう言って目を閉じたとき、また青木の皮膚から甘いにおいがした。くすんだ雨のにおいと混ざった強い香りが妙で、鼻の奥に残った。  女性の移り香なんじゃないだろうか。  ウィルスがゆるりと胸にまで忍び寄るような気配を感じたのに、かすかな優越感もあった。青木がおれのところに、雨に濡れながらも来てくれたことへの。  それからおれはスタイリストに昇格し、ほんとうに彼は、一番のお客さんになった。 「おめでとう先輩。もう心配させんなよ」  青木の、観念したような台詞と満面の笑みが、幸せだった。虹彩がまぶしかったのは、この日が快晴だったからだ。
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