雨をすぎれば

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 しばらくして、母から連絡があった。祖母が亡くなった、と。父方の、もう長く会っていない祖母。あのひとのゆるやかな口調、温かくてしわくちゃの手のひら、瑞樹は優しいね、瑞樹に髪を梳いてもらうと気持ちがいいよ、と宝物を触るようにおれの手を包んでくれたこと。  美容師になるきっかけをくれた祖母は、もうこの世にいないんだ。  褪せていた思い出が、木漏れ日のように柔く色づく。郷愁が押し迫り、オーナーに直談判するためにスタッフルームに駆けこんだ。 「祖母が亡くなったので、二日ほど店を休ませていただけませんか? 通夜と葬儀に行かせてください」  はっきり言っておれは、勤務態度はすこぶるいい。無遅刻無欠勤の大真面目で、なにがあっても仕事を最優先してきた。スタイリストに昇格して一年半、顧客も増やしたし、売り上げだって悪くない。オーナーに楯突くような言動も態度も一切見せず、後輩指導にも力を入れた。これくらいのわがまま、聞いてもらったってバチは当たらないだろう。  なのに彼は、眉間の皺を深くし、まるで侮蔑でもするかのように表情を歪める。 「それ、何時にあるの? 何時からなら出勤できる? というより一緒に住んでないんでしょ? 休む必要ある? おまえ曲がりなりにもスタイリストだろ? 二日間の予約はどうするわけ? 結果お客さんが逃げたらどうする? その損失はおまえの給料二日分の天引きで賄えるものなの? というか、それぜんぶおたくの私情だよね?」  あ、もう無理だ。  たたみかけられたオーナーと店側の正義に対し、理屈などなく淡々と、はっきりと浮かんだ。  そりゃそうだ思いっきり私情だし、あんたは正しい。二日間の予約も損失も店からしたら困るだろうよ。でもなあ。  そういう、こっちが手出しできない人質取って攻められたら雇われ側は逆らいようがないだろ。そもそも、忌引ってわがままなのか?  ――無意識も感情も、使うのは『私』という個人。  理不尽って、しょせん私用なんだ。睡眠も食事も休暇も当然労働だって、私的に奪って与えるものじゃない。 「もういいです。休みいりません」 「あ、そう?」 「きょう辞めるんで」  お世話になりました!  ばん、とオーナーが頬杖を突いている長机を思い切り叩き、びくりとおののく彼の表情を薄ら笑い、一度店に戻って私物の道具一式をかっ攫って裏口から外に出た。  ああー最高! もっと早くこうすればよかった! 過重労働も休日出勤も頭下げるのも単純にこの仕事が好きだから耐えたわけで、店のためじゃない。で、もっと簡潔におれはオーナーが大嫌いだ! カルト宗教脱退おめでとう乾杯!  空を仰げば、灰色の曇り空だった。頬に小さい粒が当たって、反射的にまばたきする。  雨だ。 「瑞樹?」 「あ、店長」  振り向くと、店長が裏口の傍で煙草を吸っていた。ぽつり、また一滴、雨が落ちてくる。路地裏から覗く空から、頬に雨が降ってくる。 「おまえどうしたん?」 「なんか限界きちゃって、店辞めました」  あまりにも清々しくて、爽快に笑ってしまった。 「まじか、さき越されたわ」 「え?」  ――俺も辞めるから一緒に店やるぞ。  その場で誘われて、おれは自然と頷いていた。瞼や鼻さきに当たる冷たい雨に、いとわしさも感じなかった。  店長はすでに新しい店の手はずを整えていたようで、三ヶ月後にはオープンした。店名の「miu」は、美しい雨、から取ったと店長は最初かっこいいことを言っていたけれど、よくよく聞いてみたら坂本美雨のラジオの声が好きだという至極単純な理由だった。  それはさて置き、miuに来たおれの最初のお客さんも、やっぱり青木だった。 「先輩、来たよー」  この日もくるんとした癖っ毛をぼさぼさに伸ばして彼はやって来た。席に案内すると、青木は言う。 「よかったじゃん、先輩」  安堵したように微笑む青木の髪に触れながら、どうしても青木を忘れられない自分に呪詛を放った。  好き、好き、好き。  おれの好意は、ずっと濡れそぼっている。
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