雨をすぎれば

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 その後もずっと続いた交流、友人関係、二十八歳のおれと二十六歳の青木。はじめて出会ってから、もう十年経った。彼はほんとうに教員になり、バスケ部の顧問をしている。おれの目の前で飲んでいて、連絡も今は頻繁に取っていた。 「先輩、もう一軒行く? どーしよ、加茂錦か。飲んだことねえな、先輩一緒に飲まねえ?」 「おまえ、もう一軒行くのか飲むのかどっちだよ」 「いやー、加茂錦が俺を呼んでるような……」 「すみません、加茂錦ひとつください」 「あーあ頼んじゃった、連帯責任だからね先輩」  へらっとふやけた笑いかたも、ほのかに赤ら顔なのも、剃っていない無精髭も、隙がありそうで意外とない。いつだって青木は自分を偽らないのに、ほんのすこし表情を隠しているように見える。ときどきかけるようになったメガネのレンズ越しだからか、余計に。  青木は、残りわずかになった枝豆をちびちびつまんでいた。刺身はとっくに食べ終え、おれは「鯵とズッキーニのソテー」という洒落っけある名前の、要は鯵と野菜を焼いたものを食べていた。  注文した加茂錦が青木の前に置かれる。お猪口ふたつください、と酩酊を感じさせない青木の、よく通る声がおれの耳にしっかり届く。 「すげえ、日本酒と合うね。くくっ、『鯵とズッキーニのソテー』に。レモンがポイントなんっすかね」 「おまえ、ネタにしてんだろ」 「だってさ、ソテーって言いかた変えただけでなんかうまそうだもんな」 「まあ、たしかに」  ちょっとしたことで、味わいかたなんてころりと変化する。かつてのおれみたいに。 「なあ先輩」 「ん?」  加茂錦を、青木のお猪口に注いだ。 「今度どっか行ってみねえ? 年末年始に遠出とかどうよ」  突拍子もないことを言われ、手がびくつく。注いだ加茂錦が、ちょっとこぼれた。なにやってんの、と笑われた。 「おま、おまえな、変なこと言うなよ」 「べつに変じゃねえじゃん。先輩、いや?」  一秒間、ゆっくり呼吸する。動揺を見せないよう、手が震えないように手前のお猪口に注ごうとする。けれど、徳利は青木に奪われた。おれのお猪口に、加茂錦が注がれていく。所在ない指さきは、テーブルの上でごそごそ動いた。 「いやっつーか、そうじゃなくて、なんでおれを誘うわけ? おまえ、自分の彼女でも誘えよ」  最後のほうは口ごもる。ごまかすためとはいえ、言いたくないからだ。 「彼女さんは、この間っつーか、けっこう前にフラれまして。はい」 「え?」  驚いた。とはいえ青木は昔から、おれが聞かないかぎりつき合っている女性の話はしないし、過去を武勇伝のように語ることもない。つまりほぼ知らないのだけど、まれにこういうかたちで突然現れてくる。  そして、彼の回答いかんによって、おれは当面の生活が感情に左右されることになる。うつむき、にやけそうになるのをこらえ、明るい顔をこしらえ、青木に向き直した。 「おまえさー、彼女にいい加減なことでもしたんじゃねえの?」  はははー、とからかってみる。 「心外っすわ、思い当たる節ゼロだし」 「聞いてみろよ、なにがだめでしたかって」 「こえー。猛然ダメ出しの予感しかしねえんですけど」 「ざまあー。思い当たる節ありありじゃん」 「女心は永遠の謎。コナンくんでも解けないよね、真実はいつもひとつじゃねえんだもんな」  青木が、お猪口に口をつける。灯りのせいで無精髭がちらついて見え、おれは目をしばたかせた。 「遠出はまじで考えといてよ。先輩も、年末年始くらい休みでしょ」 「うん、まあ」 「遠出無理なら、初詣くらい行こうや」 「……そうだね」  青木は加茂錦を飲みはじめてしまって、続きはなかった。
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