雨をすぎれば

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 彼は、おれとの距離感が近い。かといって、もともとオープンな質でもないと思う。限定のだれかにしか、おそらく寄り添わない。そういうのは嬉しいけれど、七割はつらい。どうして簡単に「あした」の約束ができるのだろう。どうして一秒さきも確実におれといる未来の約束を、いともたやすくできてしまうのか。  目を伏せ、おれもお猪口に口をつけ、残った食事をふたりで平らげた。  出よっか、と青木が伝票を持って立ち上がった。彼から逸らしていた目を、すうっと持ち上げる。そろそろカットの時期? 無精髭剃りなさいよ先生、メガネ似合うなあ、首筋しゅっとしてる。 「きょう払っとくから今度よろしくー」  歩き出した青木の後ろを追うと、彼は振り向いて言う。ぎゅうっと体が高鳴るのをこらえてうなずいた。  店を出て、青木と数十センチ距離を開け、同じ方向に歩き出した。あの男女みたいに当然、寄り添って歩いたりはしない。ほうっと吐く息はまだ白くなく、でも肩をすくめるほどには寒い。隣を歩く青木は空を仰いで、ポケットに手を突っ込み、いつもみたいにだらしなく歩いている。  ときどきおれは思い出す。高熱でうなされた日のことを。あのとき、ほんとうに青木は朝までいてくれた。目覚めたとき彼は、おれの手を握ってベッドの傍らに頭を預けて眠っていた。動揺と高揚が入り混じって、握られた手をまじまじ見つめ、夢じゃないかと反対の手で自分の頬をつねった。夢じゃなかった。離したくなかったけれど不自由で、惜しみながら彼の手のひらを外した。青木は目を覚まし、その手はおれの額を撫で、ふにゃりと笑んだ。  ――熱下がったね、よかった。  そう言って、おれのべたべたの額に自分の額をくっつけて、抱えるように頭を撫でて抱きしめた。期待した。好きだと言いたかった。今なら許されるんじゃないかとたかぶった。応えてくれると思った。  でも、青木の体からは金木犀の甘いにおいが消えていなくて、現実に引き戻された。  青木はおれを、好きになんてならない。 「先輩? どしたー?」 「え、あ、ぼーっとしてた」 「飲み過ぎた? 最後の日本酒、パンチ効いてたしな」  ちょっと前屈みになって、青木がおれを覗きこむ。  どん! と胸が騒ぐ。体中の血液が、一気に巡って沸騰する。指先が冷たいのに熱くて、手のひらだけでも落ち着けたくて握っては開いて、忙しい。  青木からはあのあと、金木犀のにおいはしなくなった。といっても、金木犀の彼女だけじゃなく、ほかの女性とだってつき合っただろう。詳細を一切語らない彼がおれの知り得ない過去をたくさん持っていることだって、ちゃんとわかっている。いろんな女性とつき合っただろうし、セックスだって当然しただろう。  子どもじゃないんだ、血気盛んな高校生じゃない。わざわざ尋ねる必要なんてない。  いやちがう。  おれに見こみがない決定的な証拠を、おれ自身が知りたくない。青木が向ける純粋な好意を、何度も不純に扱ってきたから。 「先輩?」 「あーいや、なんでも」  バレたくない。嫌われたくない。マイノリティじゃなく、紛れていたい。 「俺ってもしかして、あんたの邪魔してる?」 「は?」 「しょっちゅう飲みに誘ってるし、つき合ってもらってて」 「もらってはいない。おれが好きでやってんの、バカにすんな」 「あ、そーなの。よかった」  はは、といとけない表情を、青木は見せた。 「でもなー、先輩いいやつだからな。彼女できたらちゃんと言ってよ、誘うの控えるし」  いいやつ? おれが? はっ、ばかかよ。 「いねえよ、残念ながら」 「ラッキー、じゃあまたよろしく」 「喜ぶな不謹慎なやつめ」
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