雨をすぎれば

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 青木は、ふっと口もとを緩ませ、おやすみ、と駅構内に向かって歩き出した。その背を見送り、おれもアパートまでの道のりを歩きはじめる。ひゅっと通った風はやはり冷たく、フードの襟に顎をうずめ、ポケットに手を突っこんだ。木枯らし一号はまだだとニュースで見たばかりなのに、こんなにも寒いだなんてどうかしている。  においだけはもう初冬が滲み出ていて、目が痛い。  ――先輩いいやつだからな。  いいやつなんかじゃない。いいやつの基準がおれであるなら、日本人口の八割はいいやつだ。  なにしろおれは、青木に女性の影を見つけたら必ず呪詛を吐き散らかしている。世界壊れろ人類滅亡しろ青木とおれ以外、と。そして、関東沈没しろ日本沈没しろおれと青木がいる場所以外って祈った。いやそうじゃなくて、青木とその相手が破局したらおれが世界を呪う必要なんてないから世界平和のために別れてしまえと懇願した。別れたって聞いたときは、今もそう。美しい雨よ今こそ降れと天を仰ぎたくなったし、神様いるかいないか知らないけどありがとうと心から感謝した。世界壊れるな人類滅亡するな関東も日本も沈没するな、ありがとう、ありがとう世界! とスピーカーから叫びたかった。  大切な後輩の幸せをなにひとつ願えず、大好きな後輩の不幸に浮き立つような男なんだっておれは。  青木が雨に濡れながらおれに会いに来たあの日と、卒業式の約束を果たした一瞬を抱いて死にたかった。でも死ななかったのは「おめでとう先輩」と青木が笑ってくれた瞬間が、最高に幸せだったから。  だからおれは、せめて青木の先輩でいなくちゃいけない。  自宅アパートの近くの自販機で、ミネラルウォーターを買う。脇にあるベンチに座り、スマホを取り出した。  飲み過ぎたからか喉が渇いていて、三分の一は一気に飲んだ。食道に水分が流れていくのがクリアに伝わる。冷たく潤って、身震いした。  報われない恋の寂しさを埋めるためにはじめたマッチングアプリは、とても便利だ。秘密厳守に安心安全、うまい相手に当たれば骨抜きにされる夜になる。こいつかな、いやこいつか、いやいやこのあたり。だめだ、気が乗らなくなった。結局ポケットにスマホを戻して真っ暗闇を見上げ、瞼を冷たい空気にさらした。  約三年の間、アプリを使っておれがしてきたこと。青木に似た男性を探し、青木を想像しながら抱かれて、めちゃくちゃ気持ちよくなって、喉が枯れるほど喘いで、もう散々満足して、でも最後は、とほうにくれた。ひとの手を借りた自慰行為ってすごく気持ちいいのに、果てしなくむなしい。  フリーアドレスに、メールが一件届いている。  ――北村です。  ああ北村さんね。  ――来週、坂本さんがお休みの日はいかがですか? よかったら食事も一緒に。店はオレが探すんで、好みを教えてもらえると助かります。 「坂本さん」というのはおれの偽名だ。ちなみに北村さんは、アプリ内のDMでやり取りして会話が弾み、フリーアドレスだけ交換した相手のひとり。顔は好みじゃない。  正直、セックスさえよければ、おれはそれでいい。だれでもいい。青木の代わりになれば。  こんなおれを知っても、青木は言うの? いいやつって。  味わいなんて、生きかた次第でたやすく変化するものだ。  シャワーのあと服を着て、ベッドにごろんと転がった。ラブホテルのベッドのスプリングは、どれもこれも定型文みたいな硬さで心地悪い。  電球色で彩られた天井も、あたり一面に広がる素っ気ないクロスも、ことが済んでしまえば変に分断された気配をただよわせる。泥水がゆっくり体に吸いこまれ、徐々に重くなっていくような罪悪感が襲った。もう帰りたい。  洗面所のドアが開く。おれは体を起こした。再びスーツに袖を通し、身支度を整えた北村さんが、おれに柔らかく微笑んだ。  やっぱきょうでおしまい。もう連絡は取りません。マッチングアプリお疲れ、そしてさよなら北村さん。おそらく彼も、偽名なんだろうけれど。
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