雨をすぎれば

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 先輩、さきに飲んでるよ。  ライン通知に、その一文が書かれてあった。届いたのは十分前。二十一時は、もうとっくに過ぎている。  やべ、とデニムのポケットにスマホを戻し、カットレッスンする後輩をふたたび見やった。営業時間後のアシスタントふたりの指導は、おれの日課になっている。 「永野さん、ここの手の角度って」  ためらいがちに尋ねてくるアシスタントの木下の、左手の人差し指と中指の角度をほんのわずかに動かした。ウィッグの髪を掴む二本の指が、少し下がる。 「その角度で切ってみな」  さく、と切れ味のいいシザーの音が小気味よく響いた。刃を入れたときの音は、シザーによってちがう。その音をたしかめるだけで心地いい。木下は同じ角度で繰り返しカットし、今度はトップの髪を下ろして繋げるように切る。すると後頭部に、綺麗な丸みが出る。 「おお、さすが永野さん」  木下は目をまたたかせた。身長があまり高くないおれが見上げる彼は、図体がでかくて懐っこく、出会った当初から大型犬のイメージがある。  おれの傍で、セット椅子がぎしりと鳴った。店長が、座り直したからだった。 「もうこの店は瑞樹のおかげで回ってるようなもんだよ」  椅子に腰かけて新聞を一枚捲るのは、安田店長だ。彼のだらしないひと言に、あのねえ、とおれはぼやいた。 「店長も暇なら指導入ってくださいよ。つーかなんでいまさら新聞? もう夜なんすけど」 「だってさあ、きょう朝から忙しかったじゃん。連載小説が気になって気になって」  今朝読めなかったんだもん、と四十もとうに越えた立派な大人が、口を尖らせていじけた真似をした。 「えろ記事の間違いでしょどうせ」  言えてるー、とからから笑ったのは、パーマレッスンをしているアシスタントの唯ちゃんだ。ぱぱっと手際よく、ロッドとペーパーを手に取った。彼女は明るく気配りじょうずで、もちろん仕事もできる。特に女性客への細かな気遣いが自然で、男性だらけの職場でとても頼りになる存在だ。 「官能小説も立派な文芸だよ、畳の美しさっていうの? におい立つ描写がね、素晴らしいんですよ」  わかりませーん! と店長を除いた全員の声が揃う。 「マイノリティにも人権ちょーだいね、よっこいしょ」  店長が立ち上がったと同時に、セット椅子がきしんだ。同じころおれの心臓も跳ねて、どくんと大きく波打つ。動揺を隠すのは、もう慣れたものだ。一秒ほどゆっくり呼吸をするだけで、すぐに治まる。一秒は、案外長い。  唯ちゃんの傍に立った店長を見やり、ほっと息をついた。どうやらようやく指導する気になったらしい。もっとも、新聞を読み終えたからやる気になった可能性もあるのだけど。  ころ合いかな、とシザーケースを片づけ、ワゴンに引っかける。 「すみません、さきに上がります。きょう約束あって」 「おー、お疲れさん。俺らもじきに上がるよ」  お疲れさまでーす、と声の揃った後輩ふたりと店長に軽く会釈して、スタッフルームに足を向ける。あ、と思い立って振り返った。 「木下さっきの手の角度、反復忘れんなよ。そんじゃ」 「ありがとうございました。お疲れさまっした」  お疲れー、と返し、スタッフルームのドアを開けた。帆布のトートバッグを肩にかけ、裏口から外に出る。気温が急激に下がってしまったので、きっともう暦の上だけでしか秋を味わえない。短く切った襟足のせいで剥き出しになったうなじに、ひゅうっと冷たい空気が触れた。内と外の気温差に身震いして、思わず肩をすくめる。パーカーのフードの高さに、ぎりぎり救われた。 「miu」の看板の電球色は途絶えていたけれど、ロールカーテンの隙間からは灯りが漏れている。おさきです、とフードのなかで呟いて、歩きはじめた。  一旦立ち止まり、ポケットからスマホを取り出す。あれから連絡はない。「さきに飲んでるよ」に、おれはようやく返信した。 「今向かってます、と」
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