case kouta2

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case kouta2

気がつくと康太は自宅の部屋にいた。康太の目の前には大きな白い枕がひとつある。羽毛が中に詰まっているのだろうそれはふわふわとした触り心地の大きな白い枕だった。その枕はまるで枕の専門家が緻密に設計し安眠を保障したかのような高級ホテルに良く置いてある枕だった。それは今まで康太の部屋には当然なかったものだった。康太は訳がわからないまま今その枕を眺めていた。  ぼんやりとであるが、今まで行った事もないし見た事もないような奇妙な店を訪れていた様な気がする。だがそこから自分がどうやって帰ってきたのかが全く分からない。その店主と何やら話して今目の前にあるこの大きくて白い枕を借りた様な気がするが、まるで薄いベールに包まれたかのようにどんな話をしたのかどんな店だったかも朧げにしか思い出せない。  その思い出にはまるで鍵がかかっているのようだった。考えないでいるとチラチラと康太の脳裏に浮かんでくるがはっきり自ら思い出したく、その記憶に対して目を向けようとすると、まるで深いプールの底にある物体を覗き込むように、その対象自体がゆらゆらと揺れて一向に形を成し得ることがなかった。  店主との会話内容や店内の様子などはそのようにはっきりとは思い出せなかったが、何となく目の前にある枕を借りたことだけは思い出せる。それが今康太の目の前にある枕であることには勿論間違いはなかった。必死に頑張って脳内を浚って見てもやっとのことで思い出せるのそれぐらいだけだった。  借りた枕なんてどう考えても気持ちが悪い。だが、理性に反して康太の身体や本能は枕に触れたくて触れたくて仕方がなく、それは乾いた身体が本能的に水を求めるような渇望にも似た欲求であるのを康太自身が鋭く感じ取っていた。この枕に触れたい。これを頭に敷いて眠る事が出来れば、さぞ自分は幸せになれるだろう。康太の頭ではなく身体が康太の心にそう告げていた。そうして康太はその自然の摂理にも似たものに抗えるわけもなく意を決して枕に触れてみることにした。  少し触れただけなのに、その枕からは清涼感溢れる優しいミントやタイムなどのハーブにも似た気の流れを感じた。それが枕に少し触れただけの康太の指先を通して湧き出でる泉のようにこんこんと康太自身に流れ込んでくるのが分かった。これは普通の枕ではない。触れた瞬間からそう感じた。そしてそのような枕が持つ霊気に身体が触れた途端、康太は吸い寄せられるように自身の瞼が鉛のように重くなり、まるで劇場の緞帳が無理やり幕を下ろしていくかのごとく自らの瞼がゆっくりと閉じていくのを感じた。  眠りたい。まるで太陽が西の空へ沈んでいくように自然と自身の身体が眠りを欲しているのが分かった。なんていうことだろう。ここ数日間、頑なに眠ることを拒否していた自分の心と身体がこんなに眠りを欲することになるなんて。    疑問を思いつつも今は暴力的なまでに襲ってくる睡魔を貪りたく、康太は歯を磨くことも、着替えることもせずにその新しい枕に顔を埋めるとそのままぐっすりと深い眠りについていた。  そうして康太はその日の夜数日ぶりに深い深い眠りを得ることができたのであった。  もう耳を擘く澄ましたかささぎの声も聞くこともない。歩き慣れない分厚すぎる高級ホテルの絨毯の上を歩く必要もない世界が康太を待っていることを枕はその存在だけで伝えてくれていくれていた。そうして康太は安心して眠りの世界へ旅立っていった。    ※    次の日の朝、康太は今までの人生で感じたことのないほどの爽快な気分で目を覚ました。朝がこんなに素晴らしく感じるのはいつぐらいぶりのことだろうか。日差しがこんなに幸せに感じることが今まであっただろうか。それほど康太は目覚めた朝の光や匂い空気に関して敏感にその素晴らしさを心の底から感じることができた。  今まで眠れないまま朝を迎えていたのが全て嘘のようだった。なんて素敵なのだろう。そして何と清々しい気分なのだろう。眠れるとは何と素晴らしいことだろうか。全身から気だるさが抜け、康太は自分の体に再び活力が漲ってくるのを感じた。心から嬉しい気持ちで康太は朝ごはんを食べることにした。そんな風に考えられることも随分と久しぶりのことだった。  朝ご飯といっても一人暮らしの寂しい2ドアの冷蔵庫の中には今すぐ食べられるようなものがある訳でもなく。すっかり干からびてミイラになってしまった野菜だったはずのものや賞味期限が遥か昔に切れてしまっている調味料などが入っているだけだった。    仕方がなく静かに冷蔵庫のドアを閉めると康太は辞めようと思って未だやめられないタバコを一本取り出して火も付けずにそのまま口に咥えた。タバコは身体に良くないと分かっているが止めることができなかった。康太にはそういうことがとても多かった。  お酒もギャンブルも失うものしかないと分かっているのに止めることができない。どうしてかそれを一度止めてしまうと自分が空っぽになってしまうように思ってしまうからだった。それらの悪習慣を辞めると新しい健康的な自分に生まれ変わると古い友人は忠告してくれるがそんなもの糞食らえだった。自分を変えたいなんて思わない。康太は常日頃からそのような思想で生きてきていた。  やはりタバコに火をつける事もなく、相変わらず口に咥えたまま部屋の窓から空を見上げる。窓の外はセンスのない人間が選んだに違いないセンスのない灰色をした隣のアパートの壁があった。灰色にセンスも何もないのかもしれないが、その壁は見ていてとても気分が良くなる色とは康太にはとても思えなかった。もっと灰色を選ぶセンスのある人間がたくさんの灰色の中から厳選した素晴らしい灰色を選んでいたならば、ただ壁しかない窓の外を眺める康太の気分も少しは楽しい気分になっていたのかもしれないとも思う。  その灰色の壁は康太の部屋の窓から30cmほどすぐ先にあり、康太に決して美しい景色を見せまいと頑なな姿勢で康太の部屋の窓の前に断固として立ち塞がっているのだが、当然だがそこから首を捻って上を見上げれば今日の天気予報が何とかわかる程度には空を拝めることができた。  部屋の上に細長く広がった空はどうやら今日は快晴のようだった。それ以外の部分が黒い雲に覆われていたところで康太にはそれを知る術は勿論ないのだが。それでも康太から見える範囲での空には雲1つないのは確かなことだった。1羽の鳩が康太の眺める細長い空を一瞬だけ横切る。それは劇の幕間に演者が焦って反対側に向かうような滑稽ものに見えた。そのような馬鹿げたものを見ることが今の自分の気分には何だか至極ぴったりなような気がして康太は一人嘲笑した。  そこからふと室内に目を移すと、昨日の夜康太が頭を沈めていた白くて大きな枕に目が留まった。そこで鈍った思考回路が活性化するかの如く、この久々の眠りから得た清々しい気持ちの原因は枕のためだと思い至った。  枕に近づき触れてみる。昨日は触れた途端に枕からいくつかのハーブを組み合わせたような爽やかな空気を感じたが、一度眠りについて目覚めてしまうとどうやらその特殊な霊気のようなものは消えてしまうらしい、今の康太には枕を触ったところで何も感じることができなかった。  繁々と枕を眺めているとふと昨日の出来事が思い出されてきた。それは昨日、風変わりな店でいやに色素の薄い店主らしき男性からこの枕を借りたということだった。それはまるでテレビで見た何かの番組のようにまるで自分に起こったこととして置き換えるには難しい記憶であったし、そしてやはりその記憶の断片を思い出そうとするとまるで深いプールの底を肉眼で見るようにその残像は揺らぎ、まるではっきりとしなかった。記憶自体もまるで茹でて伸びすぎたパスタのようにぷつりぷつりとさまざまな断片に切り離されていて、交わした言葉も途切れ途切れでまるで難しい電気の回路を繋ぐように自分では上手く繋ぎ合わせることができなかった。完全な状態で綺麗に思い出すことは難しいかもしれない。だか康太はこの枕を借りる事になった店とその店主である男性との会話を少しづつ思い出すため、何とか時間をかけて必死に記憶の糸を手繰り寄せていった。 康太の記憶。それはとても曖昧なものであったがこの枕に関して本当に大事な肝であることについては何とか思い出すことができた。  色素のない男性店主はこの深い眠りを得るための枕の貸し出しルールについて、まるで命に関わるほど大事なことのように何度も何度も教えてくれた。それはまるで親が子供に大事な世界のルールを教えるように、語り説明してくれたのである。  それはなぜ今まで何故忘れていたのか不思議に思われるほど単純で簡単な内容だった。そのルールはたったの2つだ。 ルール1、枕は1人ひとつしか貸し出すことができない。 ルール2、枕は5日間しか貸し出すことができない。 それだけだった。単純だった。康太は老人からそのルールを聞いてすぐに大丈夫だと思ったし、あまりにも深い眠りを求めていたので、すぐに店主にもそ旨を伝えた。 「大丈夫です。まず第一に僕は普通の人間なので頭はひとつしかない。枕は2つも要りません。そして5日間も深い眠りを得ることができたらそれだけで僕の生活は随分助かることになる。だから5日間で大丈夫です」と。  康太のその言葉にその色素のない男性店主は洗練された柔和な笑みを見せ「素晴らしいです。では早速お貸し致しましょう」と言ってくれた。  実際借りる枕は店主の男性がいくつか康太に合いそうなものを選んで店の奥から出してきてくれた。一人一人にあった枕を奇妙な2つの色を持つ選別眼を持った店主熟練の目利きで選ぶと決まっているのだろう。そうして選ばれたものの中から康太がこれだと思うものを借りたのだった。その枕は見た瞬間から吸い込まれてしまいそうなほどに康太を魅了した。これだ、これしか考えられない。そう感じた。それは本当に嘘ではなかった。  これで今まで眠れなかった分眠れるようになる。眠れることが嬉しくて康太は早速店主に礼を言いそのまま店を出ようとした。だが店の外に出る前に何故だかふと不安になり、振り返りながら康太は店主に訪ねていた。 「もし、5日間の約束を破ってそれ以上この枕で眠ってしまった場合はどうなるのだろう?」 しかし、今までカウンターにいたはずの色素の薄い店主はもう既にそこにはおらず、そこにはただの静まり返った店内とカウンターがあるだけだった。  康太は一度瞬きをした後に再び店主を呼ぼうとも考えたが、それよりも1秒でも早く満足のいく睡眠をこの枕で得たくて、そのまま自宅に急いで帰ることにした。そうして今康太は自室にてその例の枕と共にいるのであった。  結局思い出せたのは、色素のない店主と枕のルールだけだったが、康太はもうそれ以上あの奇妙な店について何か思い出そうとも思わなかった。それはもうこれ以上考えたところで何も出てこない事を康太自身が感じ取っていたからだろう。  再びそっと枕に触れてみる。やはり今触れてもそれは普通の枕の感触に他ならなかった。よく分からないが取り敢えず後残りの4日間、康太はこの枕で寝てみると言うことに決めたのであった。
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