case kouta1

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case kouta1

 カツカツと靴音だけが響いている暗いアスファルトの上。2つの黒い影がまるで双子のように一定の距離を保って進んでいく。足が空を描くように上手く前に進まない。それはいつもと同じ者に追いかけられている恐ろしい夢だった。まるでまだ夢の中に心が絡め取られてしまっているかのように、眠りから覚めた後もまだ心臓が煩くなっていた。    その夢は毎日同じだった。それはまるでしっかりと脳内に焼き付けさせるように、毎日同じ画像、匂い、触感でそれこそテープが擦り切れてしまうほど毎日執拗に脳内で同じものを再生させられ続けているかのようだった。  もう何度この恐ろしい夢を見ただろうか。それは毎夜拷問のように繰り返されていた。そしていつも感情の様なものの介入が一切なく儀礼的であった。もうダメだった。精神が崩壊する寸前だった。いやもう本当は既に崩壊しているのかもしれない。  通りがかったお店のショーウインドウに映る自分の顔にふと目を留めてまじまじと観察する。酷い顔だった。落ち窪んだ目。げっそりとやせ細り頬骨が突き出ている。それが自分自身であるとはとても信じがたかった。 「大変失礼致します。あなたのその睡眠を私どもにお借し頂けないでしょうか?」  その声に振り返ると、そこにはこの世のものとは思えない程真っ白な容姿の男性が立っていた。  ※    いつからだろう?  一体いつからこんなに眠れなくなってしまったのだろう。  フラフラとした覚束ない足取りで帰路に着いていた棚上康太は自身に起こっている眠れないという現象について、改めて冷静に原因を突き止めようと考えていた。  ここ数日どんなにうんざりするほど長い夜を眠ることなく過ごしてきたか。そして眠れないということがどんなに辛いことなのかを康太は今人生で初めて嫌というほど思い知らされていた。  発端はある女性に関係があった。  康太はある女性のボディーガードをしている。その女性は康太にとって大変重要な人物であった。そして、その女性も最近眠れないらしく、ずっと彼女の家にはそのことを証明するように夜通し明かりが灯っていた。  今までは彼女の部屋の明かりが消えるまで見張り業務を行ってきた康太だったが、夜通しとなると康太も彼女と同様に眠るわけにはいかなかった。そのようにして毎日眠らずに彼女のボディーガードを行っているうちに、とうとう康太も彼女に同調するようにして夜眠れなくなってしまったのだった。  眠らないと身体が重くなり、正常な判断能力を失う。つまりは体調面、精神面共に不調になり、日常生活はおろかボディーガードの任務にも支障をきたすと言うことであった。そこまで自らの病が進行し康太は初めて頭を抱えた。どうしたら眠れるようになるのだろうか?と。  勿論、この不眠症とやらについて治すべく医者に罹ったりもした。精神科や心療内科なども訪れたし、本能が思わず拒否してしまいたくなるような、いくつかの薬も摂取してみたが、それでも康太の不眠症が治ることはなかった。  不眠症からくる身体の痛みや不快感を持て余しながら今日も彼はボディーガードを務めていた。  そして、今日も彼女は頑なに電気を消そうとはしなかった。いっそあの電気が消えたならば自分の不眠症も治るのではないかとも考えてしまう。勿論、因果関係があるとは思えないが康太は自身の睡眠不足に関してそのような愚かな妄想を簡単に考えてしまうほどに精神が追い詰められていた。  自宅へ帰路に着いた康太はあまりの寝不足の為にフラフラと歩いていた。精神は早朝にこだまするカササギの鳴き声のように研ぎ澄まされているのに、足元は高級ホテルの分厚い絨毯の上を歩くようにフワフワと覚束ない。そんな身体が迷い込むようにして、いつの間にか初めて通る道を歩いていた。  そしてまるで磁石で引き寄せられるようにある店の前で康太は立ち止まった。  何だか奇妙な店構えである。古い建物だ。だが、ただ古いだけではない。それはまるで和風建築しか作れない大工が全く知識のない洋風建築を注文されて無理やり作ったかのような、やや強引な印象がその建物にはあった。  沢山の資料を集めて、読めない外国語の文字を何とか読んだが、基本は和風から飛び出すことができなかった。そう思われるような建物だ。  屋根は瓦屋根で大小様々な沢山の三角から出来ていた。たくさんの規則正しく並んだ窓はどれも縦に細長く十字架のような格子がはまっている。窓枠は全て木材で出来ているようだった。1階は店舗になっているようで、大きなショーウィンドウがあった。ショーウィンドウのガラスは年月を経て黄色とも灰色とも言えない世界の古い歴史を表現したような重たい色合いを帯び、濁っていた。  ショーウィンドウの中を改めて繁々と眺めてみる。そこにはなぜか不思議なことに沢山の枕が並んでいた。枕屋か?とも思ったが、並んでいる枕をひとつひとつ見ると何だが様子がおかしい。枕はとても古いものから最近あつらえたかの様な新しいものまであり、形も江戸時代の武士が使用しているような木で作られた高い枕から、最近の高級ホテルにあるような羽毛が入った大きな枕もあった。枕屋と言うよりも枕の博物館といった方がこの店にしっくりとくるだろう。そんな店だった。  そんな怪しい店に一体何故自分はやってきてしまったのだろうか?ハッキリ言ってこの奇妙な店に入りたいとは決して思えない。あまりに見た目が古い作りなので営業しているようにも見えなかったが、お店の扉らしきものを見てみるとそこには『オープン』と書かれた木札が堂々と吊るしてあった。  そして、その札を見た途端、康太は吸い寄せられるように、その扉の把手に手をかけていた。  握って初めてその把手のデザインを観察してみる。何かの動物を模したような真鍮の把手だった。濁った目をした動物は少しくたびれているように見えたが、まるで店に入るように康太を促しているようにも見えた。冷や汗がゆっくりと背中を伝う。ただドアを開くだけなのに、そこから先が真っ暗な崖下のような不安な気分になる。だが、それでもこの扉を開けなくてはならないと思うのは、何故なのだろうか?    康太は意を決してドアノブを再び握り直すと、スローモーションのようにゆっくりと把手を下げた。思いの外軽い。用心しながら扉を外側に遠慮がちに引く。古い印象のある重たい木で出来た扉は音を立てることなくスムーズに入口を康太に譲った。恐々店内に足を踏み入れると、外では感じることのなかったヒヤリとした冷気を感じた。その空気の痺れる様な冷たさはただ肌に触れるような単純なものではなく、まるで脳に直接送られる電気信号のような特殊な冷たさだった。  店の中には外のショーウィンドウで見た枕は一切なく、ホテルのロビーによくある様な長いカウンターが一台あるだけだった。どうやら対面式で欲しいものを注文する店のようだが、カウンターの中には誰もいない。  天井にはアールヌーボーを思わせる凝った古いランプがひとつ下がっていて、そこから放たれているオレンジがかった黄色い光が部屋全体を同じ色に染め上げていた。  そのランプにも先程の入り口の把手にあったような、康太が今まで生きてきて決して見たことのない動物の絵が描かれていた。それは象のようにも見えるし、ネズミのようにも見えた。誰かが出鱈目に動物というものを想像で描いたような妙に趣のある絵が描かれていた。だが、それは何気なくじっと見つめていると、こちらの方が逆にその目の奥に吸い込まれてしまいそうになる変に魅力的な動物だった。 「お客様、そちらは悪夢を食べてくれる漠という幻の動物ですよ」  天井のランプを呆けた顔で見ていると不意にカウンターの奥からそう声がした。はっとして声がした方に目をやると、そこにはひとりの男性の姿があった。今まで人の気配など一切感じることがなかったので、まるでその男性が何もない空間から急に現れでたかのように思い康太は急に薄気味悪く感じた。  年齢は30代後半から40代ぐらいだろうか……いや実際はもっと年齢を重ねているのかもしれない。その男性は見た目からして年齢不祥であった。そう思わせるのはきっとその色素の薄い肌や髪色のせいなのだろう。アルビノと言うのだろうか。その男性は肌の色も髪の色もまるでどこかに置いてきてしまったかのように宿命的に真っ白だった。それはちょうど死神が彼の命を奪っていく代わりに彼の身体から全ての色を奪ってしまったかのように、その男性の体からは一切の色素というもの自体が取り除かれているように見えた。ただ顔の中央にある2つの眼(まなこ)だけには、右には青色、左にはグレイといった色がついており、そのあまりにも左右別々の強烈な瞳の色だけが見ている人に彼の身体にかろうじて色彩的なものが引っかかって留まっているような印象を与えた。突然現れた謎の男性に康太は僅かに警戒し後退りした。店主であろうその奇妙に色素のない男性はそんな康太に柔和な笑みを向けた。まるで長年かけて無駄なものを一切削ぎ落としたような隙のない笑みだった。  「大丈夫です。あなたの望むものは当店にございます。眠りたいのでしょう?」店主はまるでサーカスのライオン使いが優しくライオンを誘導するように康太にそう告げた。彼の命令はこのサーカス内では絶対であろう。  そして、その言葉に康太は内心とても驚いていた。どうして僕が眠れないことをこの男性は知っているのだろうか?と。店主であろう男性はそんな彼の心の声に応えるように続けて言葉を紡ぎ出す。それはライオン使いが次から次へと繰り出す華麗なるムチ捌きにも似ていた。  「怖がらないでください。私には分かります。ここは深い眠りを望まれる方が来られるお店なのです。」  「深い眠り?」康太は反射的に男性の言葉を繰り返していた。まだ完全に今の状況を理解できていないのだ。  「そうです。こちらのお店では安眠を求める方へ満足のいく深い眠りを貸し出すサービスをさせて頂いております。心の底からそれを欲する方のみが私どものお店に辿り着くことができ、そして私どもが長年かけて収集した上質の眠りを体験する事ができるのです。」どこまでも色素の薄い店主は真っ白な自らの両手を康太にさも祝福を授けるように前に差し出した。 「こちらのお店に来られたお客様は大変ラッキーな方なのですよ」最後にそう付け加えると店主は再び薄く微笑んだ。相変わらず本心の分からない隙のない笑みだった。 「深い眠りを体験できる?そんなこと……本当にできるのだろうか?」康太は興味と願望が色濃く混じった瞳をその男性に向けた。本当に眠りを貸し出すことなんかこの世界でできるのだろうか?そんなことが可能なのだろうか?その色素のない店主は柔和な笑みを康太へ向けたまま一切の無駄な動きひとつなく、深く頷いた。
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