左手の薬指

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「もう俺、何もなくなっちゃったんだよ。お前しかいないんだ」 「帰って……」  必死に絞り出した声は、近くの公園で再開した盆踊りの音でかき消される。 「由枝、俺と一緒に逃げよう?由枝、由枝」 「離して」  怖い。身体が強張って動かない。  私の腕を掴んでいる皐太の力が強すぎて、その痛みにますます恐怖がこみ上げた。  逃げないと。  声を、出さないと。 「やめて」 「俺と幸せになろう、由枝」  その言葉を聞いた瞬間、呼び覚ますように周防さんの声が胸の中に響いた。 ____『幸せになりませんか?俺と一緒に』  周防さん。 「周防さん!」  自分でも驚くほどの大声が出たのと同時に、けたたましい音のサイレンが鳴り響く。  その音に皐太が怯んだ瞬間、彼の手を振り払い立ち上がった。 「由枝!」  すくんだ足でもたつきながらも、必死になって階段の方へ走る。  早く、早く逃げないと。  階段の踊り場へ足を踏み入れた瞬間、突然現れた人影に悲鳴を上げた。  思いきりぶつかった拍子に優しい匂いが鼻をくすぐって、ハッとして目の前の人を見上げる。 「由枝ちゃん……」  髪を振り乱し、滝のような汗をかいた周防さんの姿がそこにあった。  驚きすぎて声が出ない私を勢いよく抱き寄せ、もっと強まる彼の匂いに涙腺が緩んだ。  ホッとする。  なんでこんなに、安心するんだろう。 「邪魔するな!」  逆上した皐太が私達に駆け寄り、思わず周防さんの胸に顔を埋め目をギュッと瞑った。  私の肩を抱く手の力が強まるのと共に、鈍い音が耳をかすめる。  恐る恐る目を開いた時には、皐太は床に転がり落ちていた。 「……お前の不幸に彼女を巻き込むな!」  今まで聞いたこともないような怒鳴り声に身が竦む。  しかしすぐにその言葉の意味を反芻して、再びとりとめなく涙が零れた。 「アパート内に不審者がいると通報した。じき警官が来る」  青ざめて俯く、頬が腫れ上がった皐太の姿はあまりにも痛々しくて、見ていられなかった。  ゆっくり周防さんから離れると、静かに皐太に近づく。  引き留めようとする周防さんに、笑顔で肯いた。  皐太の傍にしゃがんで、その顔をじっと見つめる。  どんな姿になったとしても、かつて愛した人だ。  どんなに不貞な行為だったとしても、それでも彼を愛していた。 「皐太、もう逃げるのはやめよう?……私達、幸せ壊したんだよ。どんなに嘆いたって、もう元には戻れない」 「由枝……」  今にも泣き出しそうな顔の皐太に、精一杯微笑む。 「本当に好きだったよ、皐太のこと。偽物の関係だったとしても、好きだった。だけどもう、愛せない」  虫が良い話だって、綺麗事だってわかってる。  それでもこれが、罪を犯した私の、私なりのけじめのつけ方だ。 「私達、それぞれ別の場所で、一からやり直そう。幸せ願ってる」  願うことを許されるなら、彼も彼の奥さんも、新しい幸せを見つけられますように。    
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