左手の薬指

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____「由枝ちゃん、今日朝早く出たんだ」  次の日、何事もなかったかのようにいつもの日常は始まり、周防さんはお店にやって来た。  どんな顔をして話せばいいかわからなくて、視線をテーブルに落とす。 「はい。ちょっと仕込みとか覚えたくて」 「そうだったんだ」  周防さんはどこか戸惑っているようだった。  きっと朝も、迎えに来てくれたんだろう。  ちくりと胸が痛むも、これ以上彼に接近するわけにはいかない。 「すみません。昨日はありがとうございました」 「いや、無事で良かった」  なんとなく気まずい空気が流れる。  ちらりと彼の手元を見ると、何故か今日は指輪をしていない。  どういうことなんだろう。  どうして昨日の一日だけ?  私の見間違い?  いや、確かにはっきりとこの目で確認した。  特徴的な、角張ったデザインのシルバーリング。  気になって仕方ないけれど、とてもじゃないけど本人に聞けるわけがなかった。 「由枝ちゃん、また帰りに」 「あの、もう本当に大丈夫ですから」  後腐れないように穏やかに微笑む。 「今まで本当にありがとうございました」  彼がどんなつもりで私に声をかけ、親切にしてくれたのかはわからないけれど。  もう今までのようには過ごせない。  逃げるように厨房へ戻る。  一瞬だけ目に入った周防さんの寂しげな表情が胸を締めつけ、せめぎ合う葛藤に苦しんだ。  大丈夫だ。  まだ何も始まっていない。  今すぐ彼を諦めれば、誰も傷つけない。 「あれ?今日はすーさんに天ぷら揚げないの?」  よし子さんの何気ない一言に苦笑して肯く。 「……はい。もういいんです」  その日から、出会った頃のようなお客と店員の関係に戻った私達。  周防さんは変わらず毎日お店に来てくれるけど、必要最低限のことしか話さない。  交わす笑顔もぎこちなくて。  もう誰も「恋じゃのお」と言わなくなった。
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