左手の薬指

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「すみません、そば湯ください」 「かしこまりました」  ああ。その穏やかな低い声が心地良くて好きだった。  食事の時の美しい所作も、腕まくりしたシャツも。  達観した、だけど全てを受け入れるような優しい眼差しも。  見惚れそうになる自分を戒めて、淡々とそば湯をテーブルに置いた。  特別な感情を抱いてはだめだ。  例え関係を持たなくても、好意があるだけで罪の意識に苛まれる。 『彼を返して』  皐太の奥さんの言葉がトラウマのように蘇り、癒えかけていた心が再び翳りを帯びた。 「由枝ちゃん、ちょっとだけ話せないかな」  周防さんの言葉に我に返って、不可抗力で彼を見つめてしまった。  切なげな瞳が私を捉えて離さない。  抗えない。  言葉に詰まる私に、よし子さんが背中を押した。 「由枝ちゃん、悪いけどお醤油買ってきてくれない?」  醤油は茂夫さんこだわりの、専門業者に注文しているはずなのに。  それでもよし子さんの気遣いが有り難くて、勇気を出して周防さんと共に外へ出た。  昼下がりの商店街はじりじりと焼けるような日差しで、さり気なく私を日陰に誘導してくれる周防さんに性懲りもなくときめく。  だけど今となっては、彼の優しさを感じる度に胸が苦しかった。  好きになってはいけない、惹かれてはいけないと思うほど、周防さんはきらきらと輝く。 「由枝ちゃん、なんで俺のこと避けてるの?」  単刀直入な言葉に固まる。  曖昧に笑って、その場しのぎに首を横に振った。 「別に、避けてなんて」 「はぐらかさないで」  真っ直ぐな瞳が狡いと思った。  実は結婚しているの?  私が不倫の罪悪感に苦しんでいるのを知って尚、何故構ってくるの。  あれだけ親身になってくれた周防さんを、からかっているだけの不誠実な人だとは思えなかった。  彼の考えていることがわからずに、焦燥感となって苛立ちを覚える。  聞けない。  結婚してるんですか?なんて。  言葉にしてしまったら、一緒に黒いものが溢れ出してしまいそうで。 「……私、彼氏が出来たんです」  咄嗟に吐いた嘘に、自分自身が呆れる。  同時に名案だとも思った。  恋の罠に嵌まらない為には、別の恋だ。 「周防さんのおかげで、やっと前に踏み出せたんです。今まで親切にしてくださり、ありがとうございました」  わざと軽めのトーンで、戯けて微笑んだ。  しかし目の前の彼は、ぴくりとも口角を動かさない。 「……本当なの?」  心臓が止まるかと思った。  周防さんは今にも泣き出しそうに、打ちのめされた顔をして頼りなく私を見つめる。  その顔に、もっと心を奪われてしまうなんて。 「……はい」  引っ込みがつかなくなって肯いた。  切なさに胸が千切れそう。  虚しくて寂しくて、もう周防さんの顔を見れない。 「……そっか」  耳に響いた優しい声に涙がこみ上げた。 「おめでとう。今度こそお幸せに」  周防さんはそれからすぐに背を向けた。  揺らめく陽炎と共に私から遠のき、二度と振り返ることはなかった。
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