左手の薬指

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「ところで由枝さんは、今お蕎麦屋さんで働いてるんだって?」 「はい、そうです。この近くにあって。とっても美味しいですよ。店主さんも奥さんも素敵な方で、お客さんも……」  高橋さんが馬鹿にしたような顔に変化したのを見逃さなかった。 「あのさ、もう少しちゃんとしたところで働いてくれないかな?結婚したら、共働きでしょ?もっと普通に正社員でさ、土日休みの、そうだな、17時くらいまで。僕は多分20時には帰れると思うから、夕ご飯作るのに間に合うでしょ?」 「え……?」  上手く頭が回らずに、高橋さんの言葉が入ってこない。 「土日はさ、キャンプでも行こう。僕、今ハマってて。友達も紹介するよ」 「あの……」 「不動産で働いてたって聞いたけど、退職した理由は?あとで身内の人に聞かれて恥ずかしいような話だったら困るから。今のうちに全部教えて」  悲しみを通り越して、呆れしかなかった。  この人は、私のことなど一つも見ていない。  自分の人生で使える道具としてしか、考えていないんだ。 「それから、今から家に寄ってもいい?普段どれだけ綺麗に掃除してるか見ておきたい。あとは、……身体の相性も。それを踏まえた上で判断する」  こんな人と家族になりかけたと思うとゾッとして、今日ちゃんと話せて良かったと逆に安堵する。  ああ、心がポッキリ折れた。  もう、恋も家族も、私には縁がないのかも知れない。 「高橋さん、申し訳ないですけど私は」 ____「ふざけんじゃねーぞ」  落としていた視線を彼に向けた瞬間、恐ろしくドスの利いた低い声が響き絶句した。  高橋さんの後ろには、あの日皐太を追い払ってくれたように、鬼の形相をした周防さんが佇み、勢いよくホットコーヒーを頭から浴びせた。 「周防さん!?」  驚いて叫ぶ私に向かって、周防さんは微笑む。 「大丈夫です。もう人肌なんで」
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