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三ヶ月後。なんとかありついた仕事は、引っ越してきたアパートの近所にある蕎麦屋だった。
比較的時給も高いし、週5で働かせてもらえるし、店主さんご夫婦もまるで孫を可愛がるように親切にしてくれる。
何より恋が生まれそうにない。
ここは常連のおじいさんおばあさん達の隠れ家のようなお店だ。
他には、たまに来てくれる家族連れの方や昼休憩の会社員のおじさんばかり。
蕎麦好きな若者は、駅前のスタイリッシュなSoba&Barに通っているらしいから、傷心の私には持ってこいの職場だった。
「由枝ちゃんみたいな働き者の良い子が来てくれて良かったよー」
そう口々に言ってくれる店長の茂夫さんと、ニコニコ笑う奥さんのよし子さんに癒されながら、今日も張り切って皿を洗う。
「私も、働かせてもらえて有り難いです」
まかないも食べさせてもらえるし、本当にこのお店がなかったら今頃まともに生きていられなかったとしみじみ思う。
しかし、一つだけ懸念すべき盲点が存在した。
「……すみません」
「はい!」
呼びかけられてすぐにホールに飛び出すと、一人の男性客がこちらに微笑んだ。
「……そろそろそば湯お願いします」
推定30歳前後の、いかにも仕事ができそうなイケメン。
どこからどう見ても麗しい容姿に、見るからに高そうなスーツ。
「……かしこまりました」
この男こそ、最大の盲点だ。
「ここの蕎麦ホント美味しいですよね」
「ありがとうございます」
この男、スタイリッシュな癖にこっちの蕎麦屋の常連なんだ。
そんなこと、私がとやかく言うことじゃないのはわかってるけど。
そう思いたくなる理由がある。
「あ、ちょっと待って」
ぺこりと頭を下げて厨房に戻ろうとする私を引き留める彼。
腕を軽く掴まれ、至近距離にふわりと良い香りが漂った。
「な、なんでしょう?」
すぐに腕を振り払い距離をとる私に、彼はくすりと笑った。
「……お姉さん、今時割烹着と三角巾なんて珍しいですね」
柔らかく微笑む美しい顔にごくりと固唾を呑み込み、そんな自分に心の中で蹴りを入れる。
「何か問題でも?」
「いえ。ただ、」
男に手招きされるまま、思わず耳を傾ける私に小さく囁いた。
「なんか逆に可愛いなって」
勢いよく彼から再び離れると、鬼の形相で睨みつけて厨房に逃げ込んだ。
そんな私を面白がって笑っている姿を覗き見る。
……なんなのあの人。
人のことからかって!
茂夫さんには悪いけど、Soba&Barの方に行けや!
この常連に毎日のようにからかわれていることが、ここでの仕事で唯一の苦難だった。
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