どこにも行かないで

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どこにも行かないで

 満ちる月の光が、ひときわ眩しい夜だった。寝転がるあの子の頭の横に手をつき、覆いかぶさる。あの子は目を白黒とさせて俺を見上げた。俺の影に隠れた状態でもはっきり分かる、慌てた表情。 「ゆう君」 「違う……俺はゆう君じゃない」  耳元に顔を近づけてそっと名前を囁く。しかし、返事はそっけないものだった。そう、この子はゆう君ではない。ゆう君に限りなくよく似ている、違う人間。俺の推測だと、きっとこの子は……。  しかし、それは最も考えたくない事実で、残酷な真実だった。  首を振る。影が揺れる。押し倒したこの子の顔はよく見えない。窓から差し込む月明かりで右手薬指の指輪がきらりと光る。  俺の口から出てきたのは、この子に言っても仕方がないことだった。分かっている。頭ではきちんと分かっているけれど、心がついてこない。 「じゃあ、ゆう君はどこにいるの」 「返して。俺のゆう君を、返して……!」  夜が来る。底なしに深い夜が来る。  時刻は二十三時。悠真(ゆうま)と佐和(さわ)の長い長い一日が終わろうとしていた。夕飯を簡単に済ませ、おのおの風呂に入り、さて就寝という時間である。が、ここで新たな問題が生じる。 「ここがベッド」 「これはあんたのだろ。俺は今までどこで寝てたんだ?」 「一緒に寝てたよ」 「え!?」  悠真はベッドをまじまじと見る。あの時は動転していてよく見ていなかったが、改めて見ると大きい。悠真はベッドのサイズなど今まで考えたことがなかったので、どう呼称していいかよく分からなかった。ダブルベッドよりもう少し大きめで、二人並んで眠っても余裕がある大きさ。二人と子供一人が寝られるキングサイズよりは少し小さめのそれは、おそらくクイーンサイズ。   マットレスがふわふわと柔らかそうで、何とも眠気を誘うが、悠真はそれどころではない。こんなでっかいベッド……これじゃまるで……そう、アレだ。  夫婦  悠真の脳内にそんな単語が浮かぶ。即座に取り消す。頭をぶんぶんと振る悠真を、佐和は不思議そうに見つめる。  お風呂上がりの火照る体を、寝間着に包む佐和。見る限り普通のスウェットなのに、やっぱりイケメンはイケメンだった。無駄に色気が溢れすぎていて、もう何もかも意味深に見える。  大きなベッド。枕もとのティッシュ。シャンプーの甘い香り。少し乱れたシーツ。布団に一足先に入っている美形の人。こちらを見つめる、こげ茶色の瞳。 「こ、こたつ! 俺、こたつで寝る!」 「風邪ひいちゃうよ」 「うっ……」 「結構広いから二人で寝ても大丈夫と思う」  しかし、男二人で一緒に寝るのはどうなんだろう。悠真は色々考える。考えて考えて最初に佐和が言った事を思い出す。  未来の俺はこの目の前のイケメンと付き合っている。付き合っているから二人で寝るし、そもそも最初からとんでもないものがだらだら出てきたわけだし……このまま寝たら危ないんじゃないか? 悠真は思わず尻を押さえながらじっとりと佐和を睨みつける。 「……変な事するなよ」 「…………何もしない」  悠真はちらりとベッドを見る。温かそうな掛け布団。厚い毛布。ふかふかの枕。迫りくる眠気。負けた。  悠真は布団をめくり、もぞもぞと布団に潜り込む。敷布団に身を横たえて、くるりと佐和に背を向けた。身体も離して背中を丸める。広いベッドがそれを許していた。佐和は何も言わなかった。ほどなくして電気のスイッチの音がして、闇が広がる。 「おやすみ」 「……」  悠真は返事をしなかった。やがて布団に佐和が横たわる気配がした。悠真はちらりと見る。 普通に仰向けになって目を閉じていた。悠真はそれを見て少しだけ安心した。変な事をされたらどうしようと思っていたからだ。  横になると悠真はすぐに眠ってしまう。今日は一日色々な事があった。身体だって疲れていた。悠真の意識が闇に呑まれる。規則正しい寝息が響くのはそれから数分後。  一方、佐和は目を閉じたものの眠れなかった。色々な事があって疲れているのは悠真だけではない。しかし、佐和は眠れなかった。昨日までは普通に悠真の名前を呼んで、頭を撫でていた。嫌がられることなんてなかった。乱暴な言葉遣いをされることもなかった。「気持ち悪い」「変な事するなよ」……そんなことを言われることもなかった。  三年前からタイムスリップして、やってきた子。そんな事が起こるわけがない。魔法も奇跡もこの世にはない。しかし、あの子がここにいて、ゆう君はどこにもいない。  佐和がそんなことを延々と考えていると、肩のあたりに何かが触れた。 寝てしまった悠真の頭だった。彼はゆう君と同じようにころんと転がって、こちらに寝顔を見せる。そう、根本は同じ人間なのだ。寝相なんてそう簡単に変わらない。寝顔だって、寝息だって、いつものゆう君。  でも、違う。一晩で何かが絶望的なまでに変わってしまった。つんつんとした固い黒髪。甘いシャンプーの匂い。あどけなくて可愛い寝顔。ゆう君ではないのだ。無遠慮で、無自覚で、無防備。それだけにたちの悪い誘い。 ……夢なら覚めてほしい。今すぐに。  あれから三日が過ぎた。ちょうど大学が冬休みに入って悠真はほぼ一日家にいる。佐和はたまに用事で出かけることもあったが、悠真が心配だったのでなるべく家にいるようにしている。二人でいるからといって何が起こるわけでもない。  佐和にとって悠真と二人きりで過ごすことは、幸せだった。今はそうとは言えない。どうしたらいいか分からない。どこまで触れていいのか、どこまで話しかけていいのか。全く分からない。悠真もそれは同じのようで、どこかぎこちない空気が漂う。  しかし夜二人で眠るとき。事態は一変する。悠真はごろごろと転がり、佐和に可愛い寝顔を見せてくっついてくる。柔らかな頬の感触、幼子のように高い体温、つんつんと固い髪の毛。 それらが佐和を容赦なく煽る。この三日、佐和はろくに眠れなかった。触ってと言わんばかりにくっついてくる子に、触れないようにしなくてはならない。  本当は触りたい。一緒に色々な事がしたい。もっと話したい。名前を呼びたい。頭を撫でたい。  でも、それは『変な事』なのだ。
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