どこにも行かないで

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 翳る日が窓から差し込む。どうも映画を見ながら寝てしまったようだった。様々な映画がリスト形式で紹介された動画配信サービスのトップ画面を消し、起きる。ソファに座ってあたりを見回す。  ふわり、と佐和(さわ)の視界の端でレースのカーテンが揺れる。カーテンではなかった。悠真(ゆうま)がバスタオルや洗濯物を取り込んでいるところだった。サッシをそっと閉め、タオルをソファに放り投げる。 「佐和先輩」  佐和は激しく動揺した。何が何だか分からないまま、意を決しておそるおそる、つぶやく。  …………ゆう君? 「そうですよ」  日にあたって乾いたタオル。お気に入りのシャツ。もこもこ素材のくつした。ふわりと漂う柔軟剤のフローラルな香り。佐和の隣に座って、悠真は洗濯物をたたむ。  夢なのかな? 夢じゃないのかな?  佐和は混乱しながらも今までの経緯を話す。朝起きたら三年前の悠真と十九歳の悠真が入れ替わっていた事。タイムスリップの事。訳が分からないこと。切なかったこと。寂しかったこと。全部、全部話した。 「タイムスリップ? そんな事、あるわけないじゃないですか」  目の前にいる悠真はタオルを四角にたたみながら、微笑む。そうだ、そんな非現実的な事があるわけがない。タイムスリップなんてない。ゆう君がどこかに行ってしまうことなんて、ない。ない。  佐和はすがりつくように、悠真に抱き付いた。悠真は「怖い夢でも見たんですか?」と言いながら、優しく佐和の頭を撫でる。柔らかい髪の毛を梳くように、小さな子どもをあやすように、優しく。ゆう君。ゆう君。ゆう君。頭を撫でてもいい? 名前を呼んでもいい?  どこにも行かないで。ずっと一緒にいてよ。 「……俺は、どこにも行きませんよ」  ほんと?  …………そう言った時、全てが幻のように消えた。目を開ける。心臓の音だけがやけにうるさかった。辺りを見回す。時計は午前十一時。夕方なんかじゃなかった。まだ日は高く、洗濯物は乾いていない。  そう、夢だったのだ。全部、全部、夢だった。いつの間にか涙があふれていた。 「おい、あんた。何の夢見てたんだ?」 「……忘れた」  夜が来る。底なしに深い夜が来る。  満ちる月の光が、悠真の寝顔を照らしていた。佐和は隣でそれをじっと見ていた。寝顔は、確かにあの子のものなのに。ゆう君に限りなくよく似ている、違う子。タイムスリップなんてない。ゆう君がどこかに行ってしまうことなんて、ない。ない。……となるとどういう事だろうか。  佐和は月明かりに照らされる悠真の白い指を見た。右手薬指にはめられた指輪。それは佐和が悠真にプレゼントしたもの。おそろいの指輪。悠真が悠真でなくなった朝からずっとはめられたまま。タイムスリップをしてきて、入れ替わったというならば指輪があるのはおかしい。  つまり、悠真の身体は変わっていない。十九歳のまま……変わったのは何処?  その事が指し示すことはただ一つ。しかしそれは最も考えたくない事実で、残酷な真実だった。 「ゆう君」  名前を呼ぶ。熟睡している悠真は目を覚まさない。小さな声が闇に消えただけだった。寝転がるあの子の頭の横に手をつき、覆いかぶさる。大きな影が悠真の顔を隠す。影がそっと柔らかな頬を撫で、無防備な唇に口づける。  柔らかな感触も、温かさも、変わらない。変わらないのに。あの子は目をぱっちりと開けて、俺を見上げた。そして絶望的な一言を吐く。 「へ、変な事しないって言っただろ!」  ……変な事、なのかな。君が好きで、好きで、どうしようもない気持ち。それを伝えるための行為は『変な事』や『気持ち悪い事』なんだろうか。  それじゃ、俺のこの気持ちはどこへ持っていけばいいんだろう。どうやって君に伝えればいい? どこまで伝えていいのかな?  日常のかすかな拒絶が佐和の心を少しずつ壊していた。思い人と同じ顔をした他人との歪な関係が、本人も気づいていない、かすかな歪みを生んだ。  佐和は溢れる涙と一緒に、悠真の名前を呼ぶ。壊れた機械のように。 「ゆう君、ゆう君……ゆう君、ゆうくん……」 「違う……俺はゆう君じゃない」  しかし返されたのはそんな言葉だった。ぽた、とシーツに涙が落ちる。  だってゆう君は俺の事、気持ち悪いって言わない。名前を呼ぶことも、頭を撫でることも、当たり前に許してくれる。いつも真っ直ぐに俺の事を見てくれて、好きって言ってくれて、どこにも行かないって言って……どこにも行かないって、ずっと一緒だって……言った。言ったよ。言ったのに。  悠真の身体は変わっていない。十九歳のまま。となると変わっているのは中身だ。中身が変わるという事。心が十六歳になってしまったという事。  ……それはすなわち、三年間の記憶を失っているという事。  しかし佐和は認めたくなかった。頭ではきっちり分かっているのに、心が受け付けなかった。だって。だって、だって。ゆう君が俺の事を忘れるなんて、嫌だ。誰か、嘘だって言ってほしい。  佐和は、今までの事を思い出していた。初めて悠真を意識した時の事、手を繋いで帰った事、卒業式の後の事……初めて身体を重ねた日の事。
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