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その一言だけで”あの時”に戻りそうになって、ビクリと体を揺らした。
振り向いたら戻ってしまいそうで、聞こえないフリをした。
無視をしたら更にひどいことになるかも! と、ビクビクする昔の自分を無視して、一歩足を前に出した。
聞こえてませんよーという体を装って気持ち早歩きになったものの、後ろから近づいてくる男の足の方が速かった。
いつの間にそこまで近づいていたのか、後ろに腕を引かれて、壁際まで押されてしまった。
これはいわゆる”壁ドン”である。
私の視界は、ネイビーのネクタイでいっぱいだ。よく見たら色味の違うネイビーがストライプになっている。細かいオシャレってか。
状況を把握して一拍。いかん!と咄嗟に押しのけようとするが、目の前のネイビーのネクタイは動かない。
「な、なん、デスカ! やめッ、ヤメテクダサイ!」
激しく噛んでしまい、グワーーーッと体温が上がる。
もう恥ずかしくて顔を隠してしまいたいところだが、私も大人になったのだ。
”私は噛んでなんていません”という顔で堂々としていれば、聞き間違いだったかなと流してくれるものなのだ。それが社会人のマナー。
私を壁に追いやった男を見上げると、キョロキョロと周囲を見回していた。そしてやっと私に視線を落とした。
その表情はいつもの営業スマイルではなく、”昔から知っている”超絶不機嫌な後藤トウマの表情だった。
「……なんですか、じゃねえよ馬鹿」
この3か月、謙虚な物腰とハニカミ笑顔で職場の女性陣をキャイキャイさせていたくせに
なんだこの底冷えする声は。地鳴りかな。こわい。
今までにない迫力がいくら怖くても、雰囲気に負けて謝ってしまえば更に状況は悪化するのだ。
ここは会社。ここは職場。オフィシャル。毅然とした態度で。そう。理性的に。
「……馬鹿ではありません。それに、こっ、これはセクハラですよ」
負けじと睨み上げると、ヤクザ顔になっている後藤トウマはさらに眉間の皺を深くした。
なんなら鼻にも皺が寄っている。人間ってこんなに”怒っている”顔が出来るのか。こわい。
「セクハラはお前だ。ケツが、見えてるから、すぐ、直せ、今すぐ」
言い聞かせるように単語を一つ一つ区切り、上から落としていく。
なんだって。
ケ、いやいや、お尻、が。
──右手をスカートに添える。
見えて、い、る……?
───スカートの生地が想定より早く消え、肌の感触が、あった。
「~~~~~~~~~~~~~っっ!!!」
ぶわわわわわわわ!!!っと顔に熱が集まる。
ババッと手で確認するが、生地が、ない! スカートのスリットが!裂けている!!
あぁぁ!きっと、さっき資料室でしゃがんだり段ボールを移動させた時に変な音がしたと思ったの!!ああぁぁあなんで確認しなかった!? え、これで歩いて、、え!?!?
パニックになり「あっ」「いや」などつぶやきながら、降り注ぐ視線につられ存在を思い出す。
「イヤァアア………ッ」
「変な声出すなよ、馬鹿か」
そんなことを言ったって、私の記憶を消すか、目撃者の記憶を消すかしないともう立ち直れない。むり。だめ。おわった。あばばばばば。
───そして冒頭に戻る。
プルプルと小刻みに震える私に呆れたのか、重い、それはそれは重ーーーい、ため息が聞こえた。
「なんかこれ昔もあったな」
「なによ……っ! 変わってないって言いたいの……!?」
なんだコイツ。
下着丸見え事件に動揺して震えているっているのに思い出話始めようとしているぞ。鬼か。鬼なのか?
完全な八つ当たりだが、キッ!鬼を睨み上げた。もう視界もゆらゆら揺れている。
どうしようどうしようもう消えたい!!
揺れる視線の先。般若のような顔をしていた男は一転、険しかった眉間の皺を解いてなんともいえない色っぽい表情になった。
こんな顔。
今まで一度だって見たことない。
今まで見て来た、馬鹿にするような表情だったり、いじめっ子のような顔だったり、そんな顔とは全然違う。
なんで、そんな顔──────
薄い唇がゆっくりと吊り上がり、私の右耳に近づくように体を屈めた。
ああ、そうだった。後藤くんはいつも屈んで私の俯いた顔を覗き込んで文句を言うのだ。
今まで毎日が忙しく、そんなちょっとしたことも思い出さなかった。
「───あの時もそんな顔してたな」
まるで共通の思い出かのように後藤くんの低い声が、耳元で響いた。
「顔、真っ赤にして」
後藤くんが何を思い出しているのか、私もここでやっと気付いた。
「プルプル震えちゃって」
後藤くんにはそう見えていたのか、いや、今もか。
「恥ずかしいのに、ごまかそうとして」
ぶわり、と
今よりずっと幼い後藤くんが、くりくりの目を丸くさせている場面を思い出した。
まるでタイムスリップしたかのように。鮮明に。
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