菅井に電話した男

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菅井に電話した男

 まさか電話が繋がるなんて考えてもなかったから、呼び出し音が途切れたあと、なんて声を掛ければいいかは迷った。 「……菅井?」  菅井じゃないことなんて知ってる。だからこれはただの悪ノリだ。眠れなくて、冷蔵庫にあったビールを一本煽った。ずっと寝不足が続いてたせいか、アルコールの回りが早かった。 「ごめん、急に。二年ぶりだし……びっくりするよな」  びっくりするどころか、怒ってるかも知れない。こんな時間に電話なんて、身内の不幸があった時くらいだろう。返事の代わりに、スピーカーからは、覚えのある電子音が聞こえてくる。終電を逃したんだろうか? ポテトが揚がりましたの合図だ。 『今、二時過ぎなんだけど?』  俺と同じで酔ってるのか、掠れた声が鼓膜を擦った。よく似てる。電話の声は、本人の声じゃないっていうのを、随分前に誰かから聞いたことがある。本人の声に良く似た音で、声を再現してるんだとか、確かそんな話だった。だからか、菅井の声によく似てる気がする。 「まだ、起きてるかと思って……」  そもそも、電話が繋がることすら想定外だった。だから菅井が起きてるか、寝てるかなんて気にもしてない。 『まぁ…いいよ』  呆れてるんだって事は、ため息混じりの声で察しがつく。それでも拒否しない理由がわからない。もしかすると、これは現実じゃなくて夢なのか、あるいは、本当に菅井に繋がってるのかも知れない。 「元気だった?」  二年前、最後に見た菅井をよく覚えてる。お互いちょうど出先で、一緒に昼飯を食ったんだ。寒い日だったのに、菅井はコートも着ないで現れた。 『ゲンキ、そっちは?』  今の状態でいうなら、去年よりはずっとマシだ。 「去年、ちょっと体調崩したかな……ウツって言うか……それで仕事辞めて……」  最初は平気だった。朝起きて、仕事に行って、部屋に戻ったらベッドに倒れ込む。ちょうど、仕事が忙しくなり始めた頃で、悲しむとか辛いとか、そんなことを考えてる余裕もなかった。いや、もしかすると考えないで済む様に、わざと忙しくしてただけなのかとも思う。ただ、様子はおかしかったんだろう。しばらく休暇を取るように言われたのは、部長に呼び出された会議室でのことだ。あれが部長の気遣いだったというのは、今ならわかる。だけど、あの時は、突き放された気がしてた。それからすぐにずっと使ってなかった有給を三日だけ消化する事にした。途端に出来た空白の中で、漸く立ち止まってみると、菅井に対する後悔や思いが、洪水みたいに体中から溢れて、どうしようもなく辛くて苦しくて、休暇は一週間になり、二週間になり、気付くと自分で立ち上がれないほどに、心が摩耗していた。 『そうなんだ。大変だったな』  優しい声だ。 「仕事、まだ続けてる?」  向こうにいる菅井を繋ぎ止めておきたくて、馬鹿な質問をする。 『続けてる。まあ、色々あるけどね』  菅井は商社で営業の仕事をしてた。大学を卒業してから三社目の勤め先だ。人との垣根が低いって言えば分かりやすい。菅井はすぐに誰とでも打ち解ける。どの会社でも上司からは可愛がられ、部下からは慕われたみたいだ。三年おきに転職した理由はよく知らない。菅井は後ろ向きな事は言わない質だった。 『で、何の用?』 「あ、ごめん。ただ、何となく、思い出して」  なんとなくじゃない。理由は明確だ。今日が菅井の三回忌だからだ。菅井は二年前の今日、交通事故で突然逝った。青信号で横断歩道を渡ってる最中の事故だった。この二年、消せずにいた菅井の番号に電話してみようって気になったのは、漸く消す気になったからだ。最後に、もう一回、声が聞きたかった。もしかしたら天国にいる、菅井に繋がるんじゃないかって、そんな気がしたんだ。 『なんとなくなんだ?』 「いや、そうじゃなくて……」  馬鹿な話だ。素直に言えるわけもない。 『もう、切っていい?』 「待って、もうちょっと話したい……」  そうだ。話したい事はたくさんある。この二年間、菅井を置いたまま、沢山の時間が流れて消えていった。友達のこと、仕事のこと、自分のこと。とにかく沢山あり過ぎて何から話せばいいかがわからない。 『話したいこと、いっぱいあったのに……なんだろ、ごめん』  頭の中で菅井の居ない二年が、断片的に再生されるのに、どれも掴みどころがなくて、言葉に出来ない。 「いいよ、ゆっくりで」  そうだ、菅井は昔からそういう人間だった。いつもそうやって、相手のペースに合わせる。会話のテンポも、歩く速度も、なんでもだ。学生時代から、菅井のそういうところが好きだった。思えば、もう、十年以上、俺は菅井に片想いのままだ。菅井との関係を壊したくなくて、自分の気持ちを無視し続けた。最後の昼飯の後、どうして菅井に打ち明けようとしたのかは分からない。もしかすると、何か良くない予感があったのかも知れない。じゃあ、また。って歩始めた菅井を呼び止めたのに、結局、何も言えなかった。 「本当は…本当はあの時、自分の気持ち、ちゃんと伝えておけば良かったって……ずっと後悔してたんだ」  言っていれば、もしかすると、菅井の運命は変わってたかも知れない。 「俺……、ずっと、菅井のこと…好きだった」  こうやって、伝えておけば、俺との関係が終わったとしても、菅井は今も生きてたんじゃないかって、ずっと後悔してる。  驚いたのか、スピーカーからは衣擦れだけが聴こえてくる。 「ごめん……急に…、怖いよな……こんな話」  普通はそうだ。相手は男で、それも友達だった。裏切ってたつもりはないけど、自分の気持ちを隠して、ずっと側に居たんだ。 「スガイ?」 『どこが好きなんだよ?』 「え?」 『え?じゃなくて、どこがそんなに良いんだよ?俺の、どこが好きなわけ?』  電話を切られると思ってたから、以外な質問に拍子抜けした。 「そんな事、聞かれると思ってなかったな」  自分の気持ちに向き合ってこなかったから、そうやって聞かれると、答えには困る。菅井はなんでも真面目に取り組んだし、どんなことにだって一生懸命だった。それから、学生時代も社会人になってからも、勉強熱心だった。いつも菅井は一歩前を歩いていて、俺はその背中を追いかけてた。 「そうだな……真面目で一生懸命で……べん……ごめん」  声がつっかえて、上手く話せない。 「勉強家だし、おも……いい……やつ……った」  目の奥がぎゅっと絞られたように、痛くて目を閉じた。 『てか、俺……』  菅井の顔が目の裏側に浮かんだ。菅井はいつも困ったように眉尻を下げて笑う。左の口角がほんの少しだけ上がる。菅井は自分の笑った顔が好きじゃないって、そう言ってたけど、俺は菅井のそんな笑顔に一目惚れした。 「会いたいよ……スガイ……」  また、くだらない話で笑って欲しい。 「スガイ……」  先に逝くなんて、ずるいだろ?どうして置いて行ったんだよ。 「スガイ……」 『ごめんな』  そうやって謝られると、どうしようもなく辛い。謝らなきゃいけないのは、多分俺の方だ。 『ごめんな……ほんと…ごめん』  菅井は何度も繰り返した。もちろん菅井じゃないことはわかってる。最後まで菅井じゃないと否定しなかった理由はわからなかった。少し聞いてみたい気もしたけど、結局は聞かないままだ。知ってしまったら、自分の気持ちに向き合ったことも、ちゃんと言葉に出来たことも、何もかもが嘘になってしまう。だから、菅井のままでいい。これでちゃんと手放せると思ったから、やっぱり菅井のままでいい。 「ありがとう」  そう言って電話を切る間際「なんもしてないから」と返した彼の声は、どこか照れ臭そうにも聞こえた。またいつか菅井の声を聴きたくなる日が来るんだろうか?いや、多分、もう大丈夫だ。きっと、大丈夫。そうして、絡先の一覧から、菅井の番号を削除した。
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