安アパートで安コーヒー

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安アパートで安コーヒー

「坊ちゃん、今日はこんなもん買って来ました」 そう言って鬼怒川がエコバッグから取り出したのは、小さな瓶に入った茶色い粒だった。 「白い粉じゃなくて黒い粉だ!」 「まあ粉というより粒ですけど。インスタントコーヒーってやつです。竜児坊ちゃん飲んだことないでしょ?」 顔に不釣り合いなエコバッグには可愛い猫のマークが付いていた。竜児が商店街な福引で当てたこのエコバッグは鬼怒川のお気に入りらしい。それを丁寧に畳むと、電気ケトルのスイッチをONにした。 「お湯を入れるだけで飲めるってやつ?すげー!」 「こんなもの飲ませてるってバレたら親父さんに殺されそうですけどね。竜児坊ちゃんには違いが分かる男になって欲しいって高い豆買い集めてましたから」 「あー……」 紅茶はフォートナム&メイソン。もしくはウエッジウッド。カップ&ソーサーにもこだわらなければならない。 コーヒーはパナマゲイシャ。コピルアクは成り立ちを聞いてからは飲めなくなったけど。もちろん丁寧にサイフォンで淹れたもの。 ウンチクを長々語りながら鬼怒川に淹れさせて、満足そうに飲んでいた親父の顔が思い出される。 「まあ親父は味なんて分かってなかったけどなあ」 「という訳でお湯を注げば完成です」 僅かばかりの郷愁を断ち切るように、目の前にどす黒い液体が置かれた。湯気から薫る香りは確かにコーヒーっぽい。 「はや!ほんとに直ぐなんだな!いっただっきまーす!」 「あ、ちょっと!」 「あつっにがっ?!」 「坊ちゃん自分が猫舌な事忘れたんですか」 仕方ないなと苦笑いしながら、口の中に火傷がないか鬼怒川は確認してくれる。なんだかんだ竜児には甘いのだ。 なんとなく、竜児はその行為が色っぽいものに感じられて、つい口を開いた。 「……コーヒーが冷めるまで、もっと親父に怒られそうなこと……する?」 自分史上最高に良い誘い文句だと自画自賛したが、鬼怒川の態度は冷たかった。 「既に何しても殺されるの確定なんで今はいいです。何より冷めたインスタントなんて飲めたもんじゃないですよ」 「ちぇっ」 唇をとんがらせた竜児を無視しながら、鬼怒川はせっせとコーヒーに何か入れている。 「はいはい、砂糖とミルク増し増しにしてますんで、飲んでください」 「ほんっと、つれねぇやつ。だいたいお前ってほんとに俺のこと好きなの?忠義心とかそういうのと恋愛勘違いしてるだけじゃね?」 文句ついでに不満をたらたら垂れ流していると、鬼怒川の頑光が鋭くなって、どん、とテーブルを叩いた。 「良いから早く飲めや」 ドスの利いた声に、マグカップに入った薄茶色の液体が揺れて、慌てて竜児はカップを手にした。 「あ、うまいうまい!甘くて温度もちょうど良くてうまい!」 「そりゃ良かったです」 打って変わって目尻を下げた鬼怒川は、自分用のマグカップを手に取って飲んだ。苦く黒い液体に眉間にシワがよって、強面に拍車をかけていた。 親父の所を逃げ出して数ヶ月。狭いアパートでの生活に慣れてきた二人の、まだ肌寒い日の一幕であった。
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