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5 幻想曲(ファンタジー)
出張帰り、会社に戻らず自宅に直帰にしたので、いつもより早い時間に最寄駅に着いた。
時計を見ると、まだ十九時だ。
(寝る時間まで、あと四時間以上あるなあ)
ふと空を見上げても、雲はほとんどない。
雨の一粒も降る気配はないけれど、このまま一人であの部屋に帰る気にはなれなかった。
(晴れた日に行くのは初めてかもしれないけど……行ってみようかな)
信号を渡ってビルの地下階段を降り、いつもと少し雰囲気の違うALONEの扉を開いた。
「いらっしゃいま……あ! 琴子ちゃん、今日は晴れてたのに珍しいね」
「マスター。出張帰りで時間が早かったからつい寄っちゃった。何これ、晴れた日ってこんなにお客さんいるんですね」
いつもは閑散としている店内には、カウンターだけでなくテーブル席にまでお客さんがたくさん入っている。いつもはソロで演奏している大樹さんも、今日はバンドを従えて聴き慣れないジャズを奏でていた。
私はカウンターの端っこに座り、隣の席に荷物を置いた。
(大樹さん、別人みたい……)
いつもは穏やかで心に染みるような音を出す大樹さんが、頭や足で楽しそうにリズムを刻んでいる。初めて見る大樹さんの一面、初めて見る盛況のALONE。
これだけの音や人の声に溢れているのに、私はなぜかまた、無音空間に閉じ込められたような気持ちになった。
そこにあったはずの自分の居場所が、突然奪われたような感覚。
それは祐介から別れを告げられた時の指先から血の気が引いていく感覚と似ていて、私は急に呼吸が苦しくなった。
「マスター、何か今日は出張で疲れたみたい。私やっぱり帰りますね」
「あれ、そりゃ残念じゃねえ。顔色も悪いし、ゆっくり休みんさいね。今日はこのあと、愛をテーマにしたピアノメドレーをやるんよ。また今度大樹にリクエストしてみて」
「うん、ありがとう。また来ます」
◇
階段を地上まで駆け上がり、自分のマンションの方に向かって歩き出す。
勝手にALONEを自分の居場所のように感じていた。美しい音に溢れたあの空間も大樹さんのピアノも、自分だけのためにあるものだと錯覚していた。
一体いつから私は、こんなに他人に依存する欲張りな人間になってしまったんだろう。
あの日、大樹さんの奏でる『雨だれ』が私の心の傷に静かに染み込んで、満たしてくれて。与えられることが当然だという気持ちになっていた。
見知らぬ土地に独り放り出された私に神様が与えてくれた、プレゼントなんだと思っていた。
(結局私は、全部人に頼っていたんだな……)
祐介のことが、ふと頭に浮かぶ。
東京に来ても祐介が支えてくれるから大丈夫だろうと期待していたし、別れたあとにこんな狭くて音のない家に閉じ込められているのも、浮気した祐介のせいだと心の中で責めていた。
私が勝手に祐介を生きる軸に置いたくせに、その軸がブレたら祐介のせいにして拗ねてたんだ。
その上、今だって。
PIANO BAR ALONEにお客さんがたくさんいることにショックを受けて、いつもと違うジャズを奏でる大樹さんに勝手に怒りを覚えている。
(なんて自分勝手なんだろ)
自分の未熟さに気付いて、何だかおかしくなってしまった。幹線道路を横切る歩道橋の上で手すりに手をかけたまま、自分の口から苦笑がもれる。
もっと自立しなければ。
元々は祐介と一緒に住むためにやって来た東京だけど、せっかく来たなら東京の生活も、新しい仕事も、楽しんでやってみたらいいんだ。
無音空間が嫌なら引っ越せばいい。やってみてダメなら、名古屋に帰ったっていい。
自分の生き方は自分で決めて、誰かのせいにするのはもうやめよう。
よし! と気合いを入れて、私は歩道橋を自分の家に向かって歩き始めた。
すると、歩道橋の向こうの方に誰かが立っているのが目に入った。私の方を見ながら真っすぐに歩いて来るその人は、見覚えのある人。
――祐介だった。
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