6 奏鳴曲(ソナタ)

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6 奏鳴曲(ソナタ)

「ごめん!」  祐介は私に向かって思い切り頭を下げた。車の騒音であまり声が聞こえず、私は無意識に祐介の方に向かって距離を詰める。 「何? なんでここにいるの?」 「琴子にちゃんと謝りたくて。この辺に住んでるって友達に聞いたから」  この人に私の居場所を教えた友達は一体誰だ。  私はもう、新しい道を歩み始めている。やっとのことで、貴方の呪縛から解き放たれようとしているのに。 「本当に俺がバカだった。八年も琴子と一緒にいて、一緒にいるのが当たり前になり過ぎてた。何も言わなくても、俺のことを分かってくれるのは琴子だけだって気付いたんだ」 「祐介……」 「だから、本当に謝るから、もう一度やり直してほしい。今度こそ結婚したい」  祐介の声も、握った両手の拳も、震えている。  頭を下げているから顔は見えないけれど、彼の目からは涙がこぼれ落ちているような気がした。 「祐介、やめてよ」 「やめない。何度でも謝りにくる。琴子が許してくれるまで。だって、八年間も一緒にいたんだ。東京でも二人でたくさん思い出を作りたい。すぐにとは言わないから、まずはまた俺の彼女になってくれないかな」  祐介は私の両腕を掴んで必死に訴える。  怒るべき? 泣くべき? 笑って受け入れるべき?  でも、私にはもう分かる。私がどうするかは、自分が決めるんだ。  誰かのために生きて、嫌なことがあったら全部誰かのせいにして。そんな人生はもう嫌だ。無音の空間から自分の意志で抜け出して、私は自ら音のある世界に飛び込むんだから。 「ごめん、祐介。もう、終わったことだよ」 「琴子……」 「私はもう祐介とはお別れした。今の会社で、新しい仕事を頑張ってみようと思ってる。まだ半年で覚えることもいっぱいあるけど、負けずに自分で世界を作っていこうと思ってる」 「だから、それを二人で一緒にできないかな?」 「ごめんね。私はもういつの間にか、祐介とは別の世界に来ていたみたい」  今度は私の方が祐介にペコリとお辞儀をして、祐介に背を向けて歩き始めた。  歩道橋の階段を降りたところに、黒い服に身を包んだくせ毛の男性が立っていた。夜の闇に隠れて直前まで彼が見えなかった私は、突然目の前に現れたその男性の姿に、ヒッと変な声を上げた。 「琴子さん。このまま家に戻ったら、アイツついて来るよ。元カレでしょ?」 「……大樹さん? なんでここにいるの?」 「せっかく来たのにすぐに店を出てくから、ついて来ちゃったよ。店に戻ろう」  大樹さんは私の手を握って、強引に店の方向に歩き始めた。祐介のいる歩道橋は通らず、わざと遠回りをして。 「今日の曲は、愛がテーマなんだけど。琴子さん、何かリクエストある?」 「……雨だれ」 「いいよ。雨だれ、弾く」 「えっ、本当にいいの? テーマは愛なのに?」  足早に歩いていた大樹さんが、突然足を止める。  振り向いて私を見つめる瞳はどことなく潤んでいた。 「俺にとっては、雨だれは愛の曲でもあるんだけど。ショパンと恋人のジョルジュ・サンドが一緒にいた時に生まれた愛の曲だよ。それに、琴子さん好きでしょ?」 「……うん、大樹さんの雨だれ大好き」 「ほら、雨だれって前奏曲(プレリュード)だから。プレリュードの向こう側に、何か良いことが待ってるような気がしない?」  雨だれのように優しい言葉が、私の心に少しずつ染み渡っていく。  大樹さんは私の手をもう一度しっかりと握って微笑んだ。 (おわり)
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