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4 諧謔曲(スケルツォ)
半年前に上京してくるまで、私は名古屋で働いていた。
学生時代から付き合っていた曽根祐介とは、上京前一年間ほど遠距離恋愛が続いていた。遠距離になってからは会う頻度がもちろん減ってしまったけれど、八年近くも一緒に過ごした二人の時間は何物にも代えがたい大切なものだった。
東京と名古屋という物理的な距離のせいで、私たちの関係が崩れることはないと信じていた。
彼からプロポーズを受け、勤め先に東京本社への異動願を出した。何カ月も待ってようやく東京でのポジションが空いて異動できることになり、彼と一緒に住む部屋も探した。
名古屋での引継ぎを終えて新幹線に乗り込み、彼にメッセージを送る。
『20時頃にはそっちの最寄駅に着くと思います。スーツケース重い!』
私のそのメッセージに、彼からの返信は来なかった。
最寄駅に到着して彼に電話しても繋がらない。仕方なく私は重いスーツケースを一人でガラガラと押しながら、二人の新居に向かった。
彼が私を裏切ったということを知ったのは、そのたった二日後のことだった。
何度もかけ続けてやっと繋がった電話の向こうで、祐介は力なく言った。
「琴子と喋ってると、いつも責められているような気分になる。これからずっと一緒に住むと思うと、不安になった」
プロポーズをしてくれたのはほんの半年前なのに。
なぜ突然そんなことを言いだすの?
新居だって私が東京に出てきて、つい先月契約したばかりじゃないか。
「どうして? 結婚しようって言ったのは祐介だよ?」
「……そういうところだよ。何でもこっちのせいにするじゃないか。確かに一度は琴子と結婚しようと思ったよ。だって八年間も一緒にいたし。でも、やっぱり耐えられない。このまま別れて欲しい」
実家を離れて一人で上京し、初めての土地で初めての仕事。祐介がいるから新しい生活も頑張れる。そう思っていたのに。
結婚を控えて幸せだった日々が、突然音を立てて崩れた。
◇
「そんなことがあったんかあ……。琴子ちゃんも苦労しとるんじゃねえ」
「そうですよ。新居を勝手に解約されて、急いで独り暮らし用のマンションを探して逃げるように引っ越ししました。急いでたから、幹線道路のど真ん前の、空気の悪い狭小ワンルームですよ」
あの雨の日以来、私はPIANO BAR ALONE の常連客になっている。雨が降った日は大樹さんの『雨だれ』が聴きたくて、会社帰りに店に寄ることにしている。
雨の日は、ALONEにはお客さんがほとんどいない。大樹さんのピアノは、私がいつも独り占めだ。
「それにしても、何でその彼氏は突然別れて欲しいなんて言い出したんかねえ」
「ああ、それはもちろん浮気です。彼が先に東京に転勤になって、同じ部署になった若い社員の子と付き合うことになったんですって」
「ええっ! それは酷すぎるじゃろ! それにしても、何でその男が浮気してるって分かったん?」
マスターはカウンターの上を拳でトントンと叩きながら、悔しそうな顔をした。
とてもじゃないけど半年前には、祐介の浮気のことなんて他人に話せなかった私も、今はこうしてマスターにペラペラと祐介とのことを喋れるようになった。
私の心の傷もいつの間にか、他人に話せる程度には回復したみたいだ。
乾いた心にポタンと雨粒が落ちて、少しずつ染み込んでいく。
そんな風にして、私の壊れた心も満たされていくのかもしれない。
「一度直接、彼に会ったんですよ。別れ話のために。で、彼がお手洗いに立った瞬間、スマホをこっそり見てやりました」
「琴子ちゃん! やるねえ。彼のスマホ、何て書いてあったん?」
「その浮気相手に対して、『今、別れ話終わった。詳しくは夜話す』ってメッセージ送ってました。そのメッセージを見て、もう完全に絶望しちゃって。私と住む新居には戻らず、その浮気相手の家に転がり込んでいたみたい。さすがにショックが大きくて、そのままお金だけ置いて店を出たんです」
祐介とは、それ以来一度も会っていない。無音の監獄で暮らす私とは、別の世界の人間になってしまった。
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