2人が本棚に入れています
本棚に追加
第9話 蛟流罷り通る
更に半時後、雨は雷雨に変わっていた。
傘を差してもぐしょ濡れになる豪雨に通りは無人となっていた。
「おきせ……。待っとれよ!」
褌一本に小刀を落とし差し、菅笠を被った半兵衛は蟹股で雷雨を突いて疾走する。
「急病人だ! 通してくれ!」
既に木戸が閉まった時刻である。顔見知りの木戸番は半兵衛の様子を見て、慌てて木戸を開け拍子木を打った。闇夜じゃ道も分かるまいと、親切にも龕灯まで貸してくれた。
隣町の木戸番に半兵衛の顔は知られていなかったが、送り拍子木で通されており、何よりその格好である。褌一本で棒を手にした姿は、医者を呼びに行く駕籠かきに見えた。
荒れ寺に着いた半兵衛は、龕灯の灯を消して目を闇に慣らした。雨に打たれたが、走って来た熱と酒の力で体はむしろ温まっている。
どうやら一味は既に寝静まっている。半兵衛は小刀を左手で抜き、右手の心張棒を握り直した。
「手入れだ! 手が回った!」
戸板を蹴破りながら、半兵衛は大声で叫んだ。居眠りをしている見張り番を右手の心張棒で有無を言わせず殴り倒す。
板の間に雑魚寝をしている輩の腹を手当たり次第に突き刺し、一味が騒ぎ出した頃合いで雨の中に飛び出した。
「囲まれた。逃げろ、逃げろ!」
半兵衛は雨と闇に紛れて、声を張り上げる。本堂の中では血まみれになって叫ぶ男達と、寝起きで混乱する者達が右往左往していた。
半兵衛の声に気付いた一味の者がてんでんばらばらに表に出て来る。履物を履く余裕も無く、何人かは泥濘に足を取られて転んでいる。
時折閃く雷光の他は明かり一つ無い闇の中である。一味には半兵衛の居場所が分からなかった。
半兵衛の方は動くものすべて敵である。蝦蟇のようにしゃがみ込み、音を頼りに摺り足で忍び寄っては棒で探り小刀で斬り付けた。
――蛟流蝦蟇足。
偶に斬られても掴み掛って来る奴がいたが、体に塗り込めてある油のせいで手が滑って埒が明かない。
――蛟流垈鰻。
近付いて来る奴には間合いの外から小刀を横薙ぎに振る。飛燕の勢いで水飛沫を浴びせ、束の間目を潰した。動きが止まった所を回り込み背中を刺す。
――蛟流寄せ波。
闇雲に刀を振り回しても半兵衛には届かない。小さい体を二つに折って、地を這うように摺り足で迫る。
雷雨の中に飛び出してみたものの着物は雨を吸い、濡れ手は滑る。重い刀を振り回せば、足が縺れて転んでしまう。その気配を頼りに半兵衛は腹を刺す。
既に七、八人は倒している筈だ。半兵衛は敵の人数を減らすことからおきせの無事を確認することに頭を切り替えた。
「おきせ、何処だー? 無事かー?」
居所が悟られることも厭わず、半兵衛は本堂に向かって叫んだ。
その時一際大きな雷鳴が轟き、本堂の階の上におきせを抱えた男の姿が見えた。おきせの体に抜き身を突き付けているのは、頭目である鬼子母神の弥八であった。
「その子を離せ!」
「うるせえ! 刀を捨てやがれ!」
弥八がそう叫び返した時、半兵衛は躊躇いもなく両手の武器を放り捨てた。がちゃりと音を立てて刀が敷石の上に落ちる。
弥八の目と耳がその音を追った瞬間、半兵衛は地に沈み蛙のように跳躍した。
どーん!
境内に落ちた雷が、半兵衛の影を本堂に映し出す。その形は手足を広げた蛙そのものであった。
――蛟流水蛇。
半兵衛は六尺を超える高さの空中で身を捻り、右足を蛙を襲う蛇のように伸ばした。はっと見上げた時には既に遅く、弥八は半兵衛の爪先に咽喉仏を潰された。
「んぐっ! ぐ、ぐぐ……」
長脇差を取り落として弥八は後ろによろめいた。床に降り立った半兵衛は、身を低くしたまま弥八に足を掛け引き倒す。
――蛟流水蜘蛛。
滑るように弥八に組み付くと、半兵衛は弥八の着物の襟を取って首を締め上げた。血流が途絶え、数秒で弥八が気絶する。
「鬼子母神だぁ? 子供を食い殺すってか、べらぼうめぇ? お釈迦様に代わっておいらが引導を渡してやらぁ」
長脇差を拾い上げ、半兵衛は弥八の頸動脈を切り裂いた。音を立てて血が噴き出す。
「地獄で功徳を積んで来やがれ!」
半兵衛は長脇差を投げ捨てた。
「蛙のおっちゃん!」
「おきせ、怪我はねぇか? 痛ぇ所は何処もねぇか? そうか。無事で良かったなあ……」
半兵衛は震えるおきせを抱き留めた。
「おっちゃん、おっちゃん!」
おきせは堰を切ったように半兵衛を呼び、その首にしがみ付く。
「おう、おう。怖かったなぁ。大丈夫だ。蛙のおっちゃんが来たからな。悪い虫はみんな平らげたからな」
半兵衛はるいにしてやったように、おきせの背中を優しく撫でた。何回も、何回も。
「さあ、うちにけえろうぜ。蛙が泣くから帰ろ――」
半兵衛の頬を伝うのは涙か雨か。半兵衛にしがみ付くおきせの頬は温く濡れた。
(完)
最初のコメントを投稿しよう!