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第2話 隣の姉妹
雨戸の隙間から差し込む光に半兵衛は目を開けた。
「夢か――」
幼い頃の半兵衛は容貌をからかわれ、よく虐められた。目が腫れぼったく顔の両側に離れており、鼻は潰れて左右に広がっている。
四角い顎にへの字の唇。悪意を持って見なくとも蛙のような顔と言わざるを得ない。
父親譲りの体格も短躯にして短足。しかも蟹股と来ていた。「蛙の半兵衛」。それが物心付いて以来の渾名だった。
「いい渾名だ」
生前父親はそう云って笑った。
「蛙は益虫だ。稲を食う害虫を退治してくれる」
自らも蛙似の父は己の顔をぺろりと撫でた。
「何より愛嬌があって可愛かろう」
そう云って、また笑うのだった。
半兵衛の父は川津善兵衛と云う名で、親の代からの浪人だった。剣術の腕を活かして町道場の師範代をしていたが、流儀が道場のものと異なるため基本の指導しか任されていなかった。
半兵衛が十五の時、父は病に倒れて世を去った。稼ぎは少なかったが、良い父親であったと思う。片親ながらよく半兵衛の面倒を見てくれた。
母は半兵衛を産むとすぐに亡くなったそうだ。半兵衛は半ば長屋の嬶達に育てられたようなものであった。
悪さをすれば引っ叩かれ、懐に余裕がある時には余った冷や飯を握り飯にしてくれた。
「半公、お前は体が小さいんだからしっかり食いな!」
「愚図々々云ってんじゃないよ! しゃきっとしな!」
長屋が半兵衛の故郷であり、その住人が家族であった。
父親を亡くしてから半兵衛は日雇いの仕事を渡り歩いて糊口を凌いだ。絵に描いたような貧乏であったが、米さえ買えれば足りない物は嬶達が分けてくれた。
野菜の切れ端、沢庵の尻尾。口に入るものは何でも有難かった。自分の体半分は貰い物で出来ている。半兵衛はそう思っていた。
「悪いね、半ちゃん」
預けていた娘二人を引き取りに、隣のお福が入って来た。
上の子は七歳のきせ、妹のるいは五歳。遠くの用事に連れ歩くにはまだまだ足手纏だ。
半兵衛の仕事が無い時に、お福は姉妹を預けて出掛けるのだ。気を紛らわす縁にと、半兵衛はおきせにいろはを教えることにしている。
紙や墨は値が張るので、板に水で文字を書かせる。おきせは予想以上の集中力を示して、手習いに時を過ごした。
おるいにはまだ手習いは無理であった。お福が拵えてやった人形で一人遊びをしていた。
おるいは口が利けない。人の話は理解するが、自分から言葉を発する事は無かった。話せない訳ではない。一年前までは普通に会話していた。
いたずら目的で流れ者に攫われ、裸に剥かれた所を通りがかりの駕籠かきに救われた。幸い事なきを得たのだが、その日以来おるいは言葉を失ってしまった。
大人の男に近寄られると震えて泣き出す。どう云う訳か半兵衛の蛙面だけは怖くないらしく、姉と共によく懐いていた。
「蛙のおっちゃん」
おきせからはそうよばれていた。三十過ぎの半兵衛は子供から見ればおじさんだろう。兄弟がいなかった半兵衛にとって、おきせとおるいは歳の離れた妹のような存在であった。
「おっちゃん、またね。るいも挨拶しな」
「……」
おるいは口を引き結んだままこっくりした。
「おお、またな」
半兵衛はにっこり微笑んで手を振った。
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