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「またお客様が逃げてしまいましたよ、阿久津先生」
樋口が去った後のバーでは、バーテンダーが男にそう声をかけていた。
「すまんね、マスター。最後に種明かしをするつもりだったんだよ」
阿久津と呼ばれた男は、頭をかいた。
「あの迫真の演技では、仕方がありません。いっそ、俳優をなさったらいかがですか」
「僕の名演技は、ここ限定だよ。皆の前で演技をするなんて、とてもとても」
そこへ入口のドアが開き、一人の青年が入って来た。メガネをかけ、小脇にビジネスバッグを抱えた実直そうな青年だった。
「あー、先生やっぱりここにいた。ちょっと油断すると行方をくらますんだから」
「おや、小暮さん、いらっしゃいませ。丁度阿久津先生がお客様を一人追い返されたところです。何か一杯、いかがですか」
「え? 先生またやらかしたんですか、どうもすみません。じゃ、ウーロン茶一杯いただけますか」
小暮と呼ばれた青年は、呆れたように言った。
「やらかしたなんて人聞きが悪いな。僕はただ、アイデアを練っているだけだよ」
「毎度のことですけど、その練り方、どうにかなりませんか。このバーで偶然会った人にアイデアやプロットを語って、その人の反応を見るなんて。そのうちネタをパクられますよ」
「別にいいさ。人のネタをパクるような奴に、この阿久津忍より面白い小説が書けるわけがないだろう」
ホラーやサスペンス、ミステリーなどを手掛ける人気作家・阿久津忍は自信たっぷりにそう言った。
「結構な自信ですね。では、その大先生には、今日締切の連載の続きを早いとこ書いていただきましょうか」
「え、ここでかい?」
「安心して下さい、ノートパソコンと外付けハードディスクは奥様からちゃんとお借りしていますから」
小暮はバッグから機材一式を取り出し、阿久津の目の前に置いた。
「さすが小暮さん、編集者の鑑ですね」
バーテンダーが微笑んだ。阿久津は仕方なさそうにパソコンを立ち上げ、文章を打ち込み始めた。仕事をしながらも、阿久津は小暮とあれこれしゃべっている。
「そう言えば、小暮くん。この前取材した呪術師の話、なかなか興味深かったねえ」
「そうですね。でも、呪いが成就する条件が『呪った相手に呪った事実が伝わった時』って、条件厳しくないですか。誰が呪いをかけているか、知られたくない時だってあるでしょう」
「あの呪術師は言っていたがね──『本気で呪っているなら、どんな形であっても伝わる』と」
「まあ、呪われるような心当たりのある人間なら、何か悪いことがあれば、もしかしてって思うかも知れませんしね」
バーテンダーは二人の会話を聞き流しながら、再びグラスを磨き始めた。ドアの外から聞こえる雨の音に、サイレンの音が混ざった。雨の向こうで何が起こったか、店内にいる者達には知る由もなかった。
雨は全てを覆い隠すように、降り続けていた。
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