雨の夜、バーにて

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「発端は三年ばかり前のことです。あの時も、こんな風に雨の夜でした」  三年前。樋口の手がぴくりと震えた。 「その日、私の妻は幼い娘の手を引いて家路を急いでいました。本来もっと早く帰る予定でしたが、仕事が長引いて遅くなってしまったんです。夜間保育をしている保育園から娘を連れて帰る頃には、もう真っ暗になっていました」  樋口の脳裏に、雨の中幼子を連れて歩く母親の姿が、まざまざと浮かび上がった。子供の手を引き、少し足早に家路につく母子。 「私はその時、出張中でした。翌日には我が家に帰れるというその夜、知らせが入りました。私は取るものもとりあえず宿を出て、急いで帰途につきました。病院で私を待っていたのは、変わり果てた姿の妻と娘でした」  事故だったという。車に轢き逃げされたのだ。 「不幸なことに、その道は普段から人通りが少なく、監視カメラの類も設置されてない場所でした。ましてや、あんな雨の夜です。妻と娘は、誰にも気づかれぬまま放っておかれていました」  男はぐっと手を握りしめた。 「調べたところ、妻と娘は、はねられた時にはまだ息があった可能性が高いそうです。つまり、はねた奴がちゃんと手当てをしたり救急車を呼んだりしていれば、助かったかも知れないんです。……それなのにそいつは何もせずに逃げた。そのせいで、妻と娘は冷たい雨の中で死んでいったんです」  聞こえた気がした。雨音に紛れる、顧みられることのないか細い声が。助けて、と。 「二人の葬儀が終わるまで、私は何も考えることが出来ませんでした。全てが終わって自宅に一人残された時、私の中に沸々と怒りが湧いてきました。逃げ延びた犯人は、のうのうと生活しているのに違いないのです。妻と娘は、もう戻って来ないと言うのに」  脳裏に『復讐』の二文字が浮かんだ、と男は語った。 「私は警察とは別に、自分で犯人を探し始めました。しかし、さっきも言ったように、現場は人気のない道です。目撃者はいませんでした。それに、雨で車の痕跡が流されてしまったようで、警察すら犯人を捕まえられずにいました。八方塞がりでした。……そんな折、私はある人物に出会いました」  その人物は、呪術師だった。男は彼を一目見て、「これは本物だ」と感じた。その呪術師は、密かに何人もの人間を呪術で殺しているのだという。 「私はその人に相談を持ちかけました。──どこの誰だかわからない者を殺す呪術があれば、教えて欲しいと」  その呪術師はこう言った。  ──人を呪わば穴二つ。人を呪うのは、一歩間違えば自らの命も落とすことになるリスクもあることだ。その覚悟はおありか。 「迷う余地すらありませんでした。妻と娘がいない今、自分なんてどうなってもかまわない。……それで犯人が死んでくれるのなら」  男の覚悟を認めたのか、呪術師は特別な祈祷の方法を教えてくれた。男は祈祷の具体的な方法までは語らなかったが、どうやらひどくおぞましいものであるのは口ぶりから見て取れた。 「千日続けろ、と呪術師は言いました。祈祷を千日続けることで、その念が相手にまで届くのだと。その間一日でも途切れたり、手順や呪文を間違えたりすれば、蓄積した呪いの念は自らに戻って来る。──つまり、始めたが最後、正確に同じ祈祷を千日続けなければ自分が死ぬことになるのです」  それは大きな賭けだった。一度始めれば、自分が死ぬリスクは高い。しかも、相手が見ず知らずの人間である以上、呪いが効いたかどうか確かめる術はない。 「それでも、私は呪いの祈祷を始めました。これしか出来ることはありませんでした。雨の日も、風の日も、具合が悪くなった時も、ただひたすら続けました。……そして、今日、ついに千日目を迎えたんです」  男の眼は明らかに何らかの期待を帯びて輝いていた。樋口はそこに静かな狂気を感じた。千日もの間、この男は妻子を殺した者への憎しみを維持し続けていたのだ。見られたくない。この眼に。この視線に。 「千日呪の成就の日です。妻と娘を殺した奴は、どこかで必ず死ぬ。私にはそれを見ることは出来ないでしょうが、無残な死を遂げていると思うだけで十分です。……これは妻子への弔いの盃であり、犯人へ報復が出来たことへの祝杯でもあるんですよ」  樋口は自分のグラスに残った酒を一気に煽った。味はもうわからなかった。 「すみませんが、用事を思い出しました。これで失礼します。どうもごちそうさまでした。……あ、バーテンさん、これ、お釣りはいりませんから」  樋口は席を立ち、一万円札をカウンターに置いてそそくさと店を出て行った。
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