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店を出た樋口を、雨音が包んだ。樋口の足は知らず知らずのうちに早まり、ほとんど走るような足取りになっていた。雨の勢いもあり、傘を差していてもあまり役に立たない。全身ずぶ濡れになっていたが、樋口は気にならなかった。ただ、あの店から遠ざかりたかった。
(なんだよ一体)
あの男の存在が頭から離れない。
(どうして今頃になってあんな奴が現れるんだ)
そうだ、確かに三年前だった。こんな雨の激しく降る夜だった。その時も残業が続き、睡眠時間を満足に取れていなかった。
その頃はまだ、樋口も車で通勤していた。帰途につく際、睡眠不足が災いして一瞬だけ睡魔に襲われてしまった。
気がつけば、タイヤがスリップしていた。ハンドルを切ろうとしたが、間に合わなかった。……そして、目の前には道を行く母親と幼い女の子の姿があった。ブレーキを踏む余裕すらなかった。
どん、とぶつかる感触。
急いで車を止めて外に出ると、倒れている母子が見えた。二人ともわずかに震えている。まだ生きている。
──助けて。
雨音にかき消されそうになりながらも、その声は確かに樋口の耳に届いた。助けて。
だが。
樋口の頭にあったのは、自らの保身だけだった。事故を起こしたと届け出て警察の聴取を受ければ、それだけ時間も手間もかかる。明日の仕事に支障が出るし、課長にも怒鳴られるだろう。また、人をはねたとなれば、治療費を払うのはこちらだ。どう見ても大怪我をしているし、それが二人一緒となると、どれだけかかるかわかったものじゃない。
瞬時にそう考えた樋口は、再び車に戻ってそのまま発進させた。逃げるのが一番だと思った。幸いと言うべきか、他に目撃者がいる気配はなかった。
車は早いうちに処分した。しばらくはビクビクして暮らしていたが、警察が来る様子もなかった。
それなのに。
何故今頃。あれはきっと、はねた母親の夫に違いない。三年も経つのに、まだあんなに……執念深く。
呪いなんて信じてはいない。だが、あれほど恨みを募らせている相手に、自分が犯人だと知られるわけには行かなかった。何をされるかわかったものではない。
──けて。
雨音に混じり、声が聞こえた気がした。
──たすけて。
この……声は。
──助けて。
……あの時の、と思った時。足首を掴まれた、ように感じた。樋口は道に倒れ込んだ。足元を見る。何もない。
だが樋口は、自分の足をしっかり掴んでいる小さな女の子の姿が見えたような気がした。
そして更に。
──どうして助けてくれなかったの。
そんな声が耳元で聞こえた。それはただの幻聴であったのかも知れない。だが、樋口がそんな冷静な判断をする前に。
雨でスリップしたトラックが、樋口の方へまともに突っ込んで来た。
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