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夕方から降り始めた雨は、夜にはすっかり本降りになっていた。樋口真也は、憂鬱な表情で傘を広げた。
無能な上司や同僚に押し付けられた仕事を片付けていたら、こんな時間になってしまった。ブラックな職場なので、その大半はサービス残業だ。こんな会社にいる自分もいい加減社畜気質だ、と心の中で自嘲する。
樋口は雨の中を歩き始めた。今の樋口は車を持っていない。例え持っていても、この状況で乗る気にはならなかった。歩くしかない。
雨は嫌いだ、と樋口は思った。ざあざあと降り注ぐ雨の音は、余計なことまで思い出してしまう。まるで追って来るように、雨音は暗い道に響いていた。
どこかに雨宿りでもしようか。ふと、そんな気になった。どうせ帰っても、自分を待っているのは散らかった部屋ばかりだ。樋口はいつも通る道を逸れ、一本裏手の道へ入った。
樋口の気分に応えるように、道の先に明かりが見えた。何かの店の看板のようだった。こんなところに、この時間でも開いている店があったのか。樋口は、誘われるようにその店に入って行った。
そこは、カウンター席しかない小さなバーだった。カウンターの中では、初老のバーテンダーがひたすらグラスを磨いている。奥の席にはただ一人の先客が、ちびちびとウィスキーを呑んでいた。店内には小さくジャズのメロディが流れている。まるで外界とは違う時間が流れているようだ、と樋口は感じた。
樋口は出入り口に近い席に座った。
「ご注文は?」
バーテンダーが訊いて来た。
「え、えーと、水割りで」
「かしこまりました」
バーテンダーは手際よく水割りを作り、樋口の前に置いた。いつも呑んでいる銘柄のウィスキーだったが、妙に旨く思えた。
ジャズの音色に混じり、ドアの向こうから雨音が漏れて来る。音の勢いからすると、当分止みそうにない。強い雨だった。
「こんな雨の夜には、思い出すことがあるんですよ」
その声が自分に向けられていることに、樋口はしばらく気づかなかった。
見ると、奥の席にいた先客の男が、じっとこちらを見ている。と、男はわざわざ樋口の隣に移動して来た。妙に馴れ馴れしい。
「失礼。ここで会ったのも多少の縁です、私の酒にお付き合いいただけますか」
年齢不詳の男だった。第一印象では三十代後半くらいかと思ったが、もっと年嵩のようにも若いようにも見える。一瞬どこかで見たような気もしたが、近くで見るとやはり知らない顔だ。
目の下のクマやどこか色艶のない肌を見ると、不健康な生活を送っているのだろうと思われた。ただ、目だけはギラギラとしていた。
「マスター、この人に私のと同じものを」
バーテンダーが差し出したグラスの中には、自分が頼んだものより明らかに高級な酒が満たされている。
「こ、こんな高い酒、いただけませんよ」
「気にしないで下さい、私の奢りです。丁度どなたかと一緒に乾杯したかったんですよ」
勧められるまま、樋口は出された酒を呑んだ。いつもの安酒より、やはり旨い。
「乾杯……って、何かお祝い事でも?」
「お祝い──というわけでもないですがね」
男は酒を煽った。
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