放課後

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放課後

 高校三年生の秋、サッカーの県予選大会は二回戦で敗退した。  僕は一回戦、二回戦共に途中から出場したが、これといった見せ場は作れず、サッカー部での活動は幕を閉じた。サッカー部の活動が終わって引退すると、杉下美南と会う事は殆どなくなった。  登下校時や、休み時間などに廊下ですれ違う事はあっても、挨拶を交わす程度で話をする機会はない。二年生の秋、僕のミスでベスト16を逃してから、何となく僕は、彼女に負い目を感じていた。それはサッカー部の仲間や監督に対してもそうだった。  みんな僕に対して特別な感情など持っていなかったと思う。あの試合の前も後も同じように接してくれた。だけど僕の心にはわだかまりがあった。だから同じように接してくる事に違和感を感じていたのだと思う。そんな心持だったから、僕のほうから彼女に話掛ける気持ちになどなれなかったのだと思う。  ちょうどその頃、彼女が同級生の吉田と付き合っている、という噂を耳にした。吉田はバスケットボール部の主将で、背が高く、少しやんちゃな雰囲気を持っていて女子生徒に人気があった。  僕はそんな噂を信じたくはなかったのだが、二人が手を繋いで歩いている姿を目にしたとき、その事実を受け入れざるを得なくなった。  僕の心にはポッカリと大きな穴が開いた。でも入学式からずっと彼女の事を思い続けて来たとは言え、告白する勇気がなかった訳だから、二人の事を、どうこう言える立場にはない。僕は勝負の舞台にすら上がっていない。だから僕には悔しがる権利もないのだ。僕に出来るのは、黙って二人が付きあっているのを見つめる事だけだった。  年が明けると、大学受験が本格的に始まり、登校日が少しずつ減っていく。高校生活は確実に終わりに近づいていた。  杉下美南が、吉田の彼女になったという事を知った日から、僕の高校生活に色彩は無い。残りの時間は、これと言ったエピソードもなく、それなりの大学を受験して、静かに終わっていくのだろうな、と思っていた。  一月の終わりに近づいたある日の放課後、僕は忘れ物を取りに教室へ戻った。すると、隣のクラスから男女の話し声が聞こえてきた。男の声は、少し興奮気味で大きく、女の声は涙ぐんでいるように聞こえる。ただならぬ気配を感じた。気まずい事にならないよう、僕は静かに自分の教室へ入り、忘れ物を取って、速やかに去ろうとした。  その時、聞こえてきた女の声が、杉下美南である事に気づいた。 「もういいよ…… 終わりなんでしょ……」 「ごめん…… これ以上は無理だよ!」  隣の教室を飛び出た男と、僕は廊下で鉢合わせになった。  その男は吉田だった。  吉田は僕の顔を一瞥すると、気まずそうに目を逸らし、そそくさと消えて行った。隣の教室からは、彼女の啜り泣く声が聞こえる。どうしたら良いのか分からない僕は、その場に立ちすくんだ。  しばらくすると、教室のドアが開く音がして、彼女が出てきた。彼女が僕の存在に気付く。そして二人の間に気まずい空気が漂った。彼女はハンカチで涙を拭い笑顔を繕った。その笑顔は見た事がない悲しいものだった。  僕は、杉下、大丈夫か? と声を掛けた。彼女は、頬を少し引きつらせながら頷いた。そして、下を向きながら静かに走り去って行った。その場に取り残された僕の胸には、複雑な思いが押し寄せてきた。  杉下美南が吉田と別れた、というのは、僕にとって悪い事ではなかった。だけど彼女の涙を見るのは辛かった。彼女の事が心配だったし、彼女を泣かせた吉田に対しては、憤りが込み上げてきた。僕に出来る事はないのだろうか、思考を巡らせたが、答えが出る前に時間だけが過ぎ去って、彼女はもう見えなくなっていた。  その二日後、下校時に自転車置き場で杉下美南と会った。彼女が何か困っているような感じだったので僕は声を掛けた。すると、彼女は自転車のカギを無くしてしまって帰れないのだ、と言う。  僕はキーホルダーに携帯用の小さなプラスドライバーをつけていた事を思い出し、自転車のカギを外してあげた。  彼女は喜んでくれた。そして一緒に帰らないか、と僕に言った。 「一平は、駅から電車だったよね…… 駅まで一緒に帰ろうよ」  僕は二日前の事があったので、彼女の事が気になっていた。それにサッカー部を退部してから、話をする事が出来ていなかったので、一緒に帰ろう、というひと言に、心が弾んだ。  校門から少し離れた所まで、僕達は並んで歩き、そこから先は二人乗りをした。僕が前に乗り、彼女は後ろの荷台に横向きで乗って、僕の腰に腕を回した。僕達は、高校時代の、主にサッカー部での出来事を話しながら帰った。彼女は僕の背中で明るく話し、たくさん笑った。二日前の出来事など忘れてしまったかのように。  それは僕にとって、高校生活で最も幸せな時間だったように思う。そして、彼女への思いが強くなっていき、これまでとは違う形に変わったような気がしていた。  彼女には今、彼氏が居ない。失恋して心が空っぽになっている。僕は別れの現場を見てしまった。僕と彼女だけの秘密がある。今が思いを告げるチャンスかも…… 色んな事が打算となって、僕の頭を駆け巡った。  駅に着くと、彼女は少し気まずそうな笑顔を浮かべて言った。 「この間は恥ずかしいところを見られちゃったね…… でも大丈夫だから、気にしないでね」  そう言い終えた後、彼女の瞳が少し潤んでいるように見えた。僕の心には、伝えたい思いが激しく込み上げてきた。だけど僕の口は動かなかった。口を開こうとしているのに、それを押し留めようするもう一人の自分が居る。意気地なしの自分、傷つくのを恐れてばかりいる自分、あと一歩踏み出す事が出来ない情けない自分。結局、彼女への思いを口にする事は出来なかった。  好きです、たったひと言で良いのに、あと少しの勇気が無かった。  僕は彼女と過ごした僅かな時間に喜びを感じながらも、自分の気持ちを伝える事は出来なかった。その虚しさにうなだれた。  僕の腰には、彼女の腕の感触が残っている。白くて細い腕、その細さが僕の身体にしっかりと絡み、胸の奥に棘が刺さったような痛みを残す。  高校生活はもうすぐ終わってしまう。僕の心はざわつき始めた。
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