卒業式

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卒業式

 杉下美南と自転車の二人乗りをした日から、僕の頭は彼女の事で一杯になった。僕と彼女の距離は少し近くなった気がする。だけどもうすぐ僕達は会えなくなってしまう。越えられそうで、越えられそうにない高い壁。その壁を作り出しているのは自分だと分かっているのに、動き出せない自分に嫌気が差す。  大学受験を控えていた。だけどちっとも勉強に身が入らなかった。僕はノートや教科書を開いたまま、ぼーっとした毎日を過ごしている。  僕は彼女の事が好きだった。だけどそれは一種の憧れのようなもので、気持ちを伝えて交際に発展させたい、という願望が強い訳ではなかった。そう思っていた。いや、付き合えるものなら付き合いたい。でも僕にとって、彼女は高嶺の花。だから、気持ちを打ち明けるという事に、現実味が無かったのだと思う。  それが、吉田と付き合っているという噂を聞いた時にひどく落胆し、別れ話を聞いた時に、心に光が差し込んだような気分になった。僕の気持ちは、憧れという言葉では処理しきれない程、膨らんでいる。  二人乗りをして彼女に近づいた時、気持ちを伝えなければ、という衝動が生まれた。僕の思いは憧れなんかじゃない、これは恋だと気づいていた。僕は間違いなく彼女に恋をしている。三年間ずっと彼女に恋をしていたのだ。このまま卒業したら一生後悔する。思いを言葉にして伝えなければ、何も起らない。僕は覚悟を決めた。彼女に告白しようと。  卒業式の日、空は青く澄み渡り、少し強い風が吹いていた。数日前に咲き始めた校門の桜は、満開には程遠いが、風に吹かれた花びらがチラチラと宙を舞っている。  卒業式は、生徒会の計らいで、卒業生全員でサプライズを仕掛けた。閉式の挨拶と共にポケットに隠し持っていたクラッカーを鳴らすというものだ。  計画は成功した。教頭先生が登壇すると、僕たちはニヤニヤと顔を見合わせてポケットに手を突っ込んだ。卒業証書授与式を終了します、という言葉が合図だった。僕達はポケットからクラッカーを取り出し、一斉にその紐を引いた。  パーン、と言う大音響の後に、在校生や保護者から大歓声があがった。僕らは作戦が成功した事に歓喜して、周りの者とハイタッチを繰り返す。体育教師で校則の取り締まりに厳しい福田先生は、顔を真っ赤にして怒っているようだった。だけど列席していた保護者が涙を流して感動している姿を見ると、振り上げようとしていた拳をポケットに突っ込んで、怒りをおさめた。  これで高校生活は終わりだ。今、目の前の校庭で輪になって話をしている同級生達も、明日から別々の道へ進む。こうやって会う事は、もう二度とないだろう。そんな事を思うと、急に寂しい気持ちになってきた。  僕は、杉下美南を探した。  人気者の彼女の周りには、たくさんの仲間が集まり、大きな輪が出来ていた。その中で、笑顔を浮かべ、時に涙を指で拭いながら、彼女は話をしている。そんな今まで当たり前だった姿を、明日から見る事が出来なくなる。彼女の制服姿を見るのはこれが最後なんだ。そう思ったら、彼女と過ごした三年間の思い出が蘇ってきた。  初めて教室で挨拶をした時の事。教科書を忘れて、彼女に見せてもらった事。夏合宿で一緒に線香花火をした事。文化祭で僕の醜いセーラー服姿を見られた事。後夜祭で一緒に踊った事。サッカーの県予選大会で敗退した時の事。吉田と別れ話をしているところに出くわしてしまった事。自転車に二人乗りをして帰った事。彼女の笑顔、彼女の声、彼女の匂い、彼女の髪、彼女の手、彼女の指……  僕は彼女の事を遠くから見つめるばかりで、直接話しをした事は数えるくらいしか無かった。だから彼女にとって、僕は特別な人ではない。  でも、僕にとっての彼女は……  人の輪が解け、校庭にいる卒業生は数える程になった。彼女も名残惜しそうに学校を去っていく。僕は勇気を振り絞って、彼女の後を追った。そして校門を出た所で、ようやく追いつく。  「杉下!」  少し上擦った声で、呼び止めた。  「あっ、一平」  振り返った彼女は笑顔を浮かべながら、僕のほうへゆっくりと歩を進めてくる。僕たちは向かい合った。突然、強い風が吹き、桜の花びらが宙を舞って、彼女の肩の上に落ちた。  僕は彼女の目を見つめる事ができず、胸につけられたコサージュに視線を落とす。想いを伝えるチャンスはこれが最後だ。心臓がドキドキと激しい音を立て、頭の中が真っ白になって、舞い上がる。  一瞬の沈黙が、永遠の様に感じられた。  「あの……」  唇が震えて、思うように動かない。  好きだ、と言う気持ちを伝えたいのに、ただそれだけなのに、好き、と言う言葉がどうしても言えない。 「杉下…… 3年間ありがとう…… 」  意気地なしの僕が搾り出した精一杯の言葉。  彼女は目に涙を浮かべて、僕の手を両手で包んだ。 「一平、ありがとう…… 一平が居てくれて本当に良かった」  彼女の涙は、零れ落ちそうに膨らんでいる。その涙が眩しすぎて、見つめ続ける事ができない。僕は、彼女の肩の上に乗っている花びらを、指でつまんだ。それを見た彼女は、ニコニコと笑う。僕も一緒に笑った。  彼女が去った後、僕は、その花びらを手の平に乗せた。すると、再び強い風が吹きぬけ、手の平の花びらが宙を舞う。僕は、舞い上がった花びらを見上げた。青空に溶け込むように、高く高く舞い上がった花びらは、やがて小さくなって消えた。  杉下美南への思い、それはさくらのように淡い色で、いつ消えてもおかしくは無い儚さを纏っていた。だけど確かに存在していた。青空にクッキリと浮かび上がる花びらの様に宙を舞い、風に流され、いつ消えてしまうか分からない頼りなさだったかもしれないけれど、それでも疑いようの無い本物の恋だった。
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