一章 翡翠の姫

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「これを使って族長とやらの眼を突き刺し、その隙に首を絞めてくるのじゃ」  首を絞めるための紐は、竹籠に何本か入っていた細紐を束ねて編み込むことで丈夫で長いものを作った。これを髪に巻き付けておけば、露見することなく持ち込めるだろう、というのが雪加(シュエジャ)の考えである。  男の目を刺した上、首を絞めるだなんて、そんな恐ろしい真似はできないと鴎花(オウファ)は拒んだのだが、雪加は許してくれなかった。彼女はとにかく、自分の生活と祖国を無茶苦茶にした蛮族に対し一矢報いなければ、気が済まなかったのだ。  しかしそんな企てが、まさか男の寝所に入る前に露見してしまうなんて。 「そ、それは……」  なんと言い訳すればいいのだろう。しどろもどろになる鴎花の頭をアビは乱暴に掴んだ。 「ひぃっ!」 「いいか。八哥に毛筋ほどの傷でもつけてみろ。八つ裂きにしてやるからな」  訛りの無い完璧な発音の華語(ファーユゥ)で脅してきた黒い瞳の青年は、その言葉が鴎花の頭に浸透するよう、強い力で何度も壁に押し当ててきた。  その形相は鬼のように恐ろしく、恐怖で震え上がった鴎花は痛みを訴えることすらできない。  そしてアビはいまやすっかり乱れてしまった鴎花の髪から長い飾り紐をも奪い取ると、尻を蹴とばすようにして、族長がいるという部屋の中へ鴎花を放り込んだのだった。 「きゃっ」  鴎花はよろめいてその場に膝をついた。  その背後では異様に大きな音がして戸が閉まる。アビが苛立ち紛れに戸を蹴り飛ばしたのかもしれない。  心臓が早鐘のように打っている鴎花は、床から立ち上がることができなかった。  なんということだろう。  雪加の考えた無謀な計画のせいで、こんなにも恐ろしい目に遭ってしまうなんて。  だが、考えようによってはこれで良かったのかもしれない。  唯一の武器を取り上げられたのなら、雪加もまさか素手で首を絞めてこいとは言わないだろう。これで無謀な暗殺をする必要が無くなったのだ。 「何をやっているんだ? 早く来い」  部屋の奥からは野太い男の声が響いてきた。鴎花がいつまでも自分の前に来ないから不審に思ったらしい。  鴎花は呼吸を整えて立ち上がると、乱れてしまった髪の毛を手櫛で整えながら、部屋の中へと目を向けた。  瑞鳳(ルイフォ)宮の中ながら狭くて薄暗い、殺風景な室内だった。燭台が一つだけ置かれていて、床には分厚い毛織物が敷いてあるものの、机や椅子、寝台など調度品の(たぐい)は見当たらない。  そして毛織物の上には分厚い座布団を二つ重ね、その上に寝転んでいる男の姿があった。 (あぁ、やはりあの夜の(ひと)だ)  鴎花は声にならない吐息を漏らした。  恐らく人の上に立つ立場の者だろうとは思っていたが、やはり彼が族長だったのだ。  (カケス)の羽のように綺麗な蒼色の瞳をした彼は、アビと同じく短い頭髪で、黒い衣を着ていた。身分ある人なのに特別な格好をしていないのは、これまで後宮の中で、着飾った高貴な人を見続けてきた鴎花には不思議に感じられる。  彼の手には銀の酒杯が握られていた。手元の盆には同じく銀の徳利と銀の皿が置いてある。皿に入っているのは皺だらけの赤銅色の粒で、恐らく干し棗だろう。どうやらこれを肴に酒を飲んでいたようだ。  俯きかげんで彼の前に出た鴎花は、毛織物の手前でおずおずと膝をついた。  大国の姫として権高くあるべきかとは思ったが、あの混乱の最中、命を助けてくれた相手に対してあまりにつっけんどんな態度も良くないかと考え直したのだ。  あの夜は彼が担いでくれたおかげで、凌辱と略奪に巻き込まれなかった。そのことを、鴎花はよく理解していた。 「鵠国(フーグォ)皇帝、燕宗(イェンゾン)が五女、(チャオ)雪加(シュエジャ)でございます。広大なる北の大地の守護者であられる貴公におかれましては、はるか遠方の地よりよくぞ参られました。これもひとえに天帝(ティェンディ)のご加護とお導きの賜物でございましょう」  皇女としての礼節を心がけた鴎花は、男に対し慇懃に頭を下げた。  しかし丁寧な挨拶を施したにもかかわらず、男は無言で酒を飲み干すだけ。皇女が正式な挨拶をしたのに、当然あるべき返答の文言も述べなかった。  やはり蛮族だけに礼儀知らずの男であるらしい、と鴎花は残念に思ったが、彼は言葉を与える代わりに、空になった酒杯をぶっきらぼうに突き出してきた。 「飲め」 「……は、はい」  鴎花が受け取った杯に、彼は白く濁った酒を溢れんばかりに注ぎ入れた。  僅かに泡立っている上に、顔を近づけると臭みを感じる酒である。
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