六章 疑念の先

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 この戦いで鴉威の民は羽林軍の旗を多数手に入れ、その旗を掲げて木京まで駆け抜けたのだ。  かつて石蓮角は羽林軍と鴉威の軍勢を見間違え、玄武門を開けっぱなしにしてしまったことを悔いていたが、そもそもこの男が戦場から逃げ出さず、さらには敗戦を知らせる伝令を走らせていれば起こらなかったことなのである。  アビは広鸛が羽林軍の指揮官だったことしか認識していなかったが、少し話をしただけでその薄っぺらい人となりを見抜くことができた。その長ったらしいだけの実が無い喋りっぷりだけでも分かる。この男は舌しか取り柄が無いのだろう。  こんな奴は殺してしまってもなんら差しつかえ無い。  しかしあまりの駄目っぷりに、殺意を削がれてしまったのもまた事実だった。  それでも放っておくには都合が悪い。  彼は雪加の許婚であり、彼女の正体を知っているのだ。この男の口から余計な言葉が飛び出すと、王妃が偽物であることを伏せているアビの立場すら悪くなってしまう。  少し考える時間が欲しい。  しかし後宮の奥深くで面布をつけて暮らしていた雪加と違って、広鸛は少なからぬ華人達に顔を知られている。長時間表にとどめておくのは危険だった。  悩んだ挙げ句、アビは嘴広鸛を一旦、(ミン)王檣(ワンチァン)の屋敷へと連れて行くことにした。  五重塔がある寺の近くに、確か彼の屋敷があると思い出したからだ。  アビの母の弟である王檣は、野心家であった。元は下級貴族でしかなかったが、年始の変の後、アビの叔父であることを理由にすぐにイスカへの恭順を示し、それによって今は名ばかりとはいえ高い地位を得ている。  故にその屋敷も広大であり、アビは門番に身分を明かすと、市中で捕らえた謀叛人の取り調べをしたいから、どこか使っていない小屋を一つ貸して欲しいと頼んだのだ。  主である王檣は瑞鳳宮へ出仕していたからこの時は屋敷におらず、代わりにその妻とやらが応対してくれた。 「そういうことでしたら、こちらをどうぞお使いくださいませ」  彼女は褐色の肌をした甥っ子に対し、丁寧に応対した。夫の出世が国王の弟である甥っ子との血縁によるものであることをよく理解していたのだ。ゆえに彼女はアビの要求通りに納屋を貸し出してくれ、人払いもしてくれた。 「よし、もう喋っていいぜ」  貸してもらった納屋の中に誰もいないことを確認すると、アビは広鸛の口に巻き付けていた布切れを外してやった。  この男も明家の者達にわざわざ自分の身分を明かし、敗戦の責任を問われるようなことはしないと思ったのだが、念には念を入れたのである。  一緒に連れてきた雪加には特に口止めをしなかったが、それでも彼女はこれまでのところだんまりを決め込んでいた。  自分が翡翠姫であると騒いだところで、威国に恭順の意を示している明家の中では助けを得られないと判断したのだろう。この無鉄砲で世間知らずのお姫様も、少しは周囲の状況を考えることができるようになったようだ。 「ここに来るまでに考えたんだけどさ、お前には郭まで行ってもらうよ」  手を後ろで縛ったままの広鸛の正面に立ち、アビは話しかけた。  その軽い口調は、ちょっと隣町までお使いに行ってきてくれと言うのと同じくらいの調子だったが、もちろん言われた方は愕然としてしまった。 「郭へ?」  広鸛の顔には脅えの色が広がった。  郭宗の前へ顔を出したが最後、羽林軍の総都督として、国を滅ぼした責任を取らされると恐れたのであろう。  しかしアビはそれなら心配いらないと説明してやった。 「お前は奮戦虚しく威国に捕らえられたのだと誤魔化せばいい。そして永らく地下牢に入れられていたが脱出。しかもその際に威国の重要書類を手に入れたと言えば、むしろ手柄になる」  重要書類というのは、木京周辺の防御態勢についての書面である。  木京の街を守備する兵士の人数や装備、最近使っている狼煙の種類など、今から細かく書き上げて渡してやるとアビは約束した。 「そういう軍事機密をお前に預けるから、郭宗には再度木京を攻めるように上奏して来い」 「ど、どうしてそんなことを……」
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