六章 疑念の先

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「理由をお前が知る必要は無い」  戸惑う広鸛に対してアビは冷淡な返事をした。  しかしこれは、明らかに威国(ウィーグォ)を裏切る行為なのだ。広鸛の困惑は抑えきれない。   「いや、待て。我にもそれを知る権利くらいはあろう。この話に乗るかを決めるためにも、うぬの意図は教えてもらわねば困る」 「はぁ?」  殺される訳では無いと分かって少々気が大きくなった広鸛は、交渉の種を探したい一心で申し出たのだろう。  しかし不快さゆえに大きく顔を歪めたアビは、次の瞬間、広鸛の胸を蹴り飛ばしていた。 「うぐっ!」 「勘違いするなよ。お前がこの計画を遂行できなくとも、俺は全く困らないんだ。だがお前はこれを成功させる以外、生きていく道が無い。乗るか乗らないかなんて、決める権利はお前に無いんだよ」 「く……」 「国を滅ぼした大罪人として、人々から石を投げつけられて死にたくなけりゃ、余計なことは考えず全力で臨め」  アビは倒れたまま起き上がれない広鸛の顔面を踏みつけて言い放った。物分りの悪い華人に自分の置かれた立場を分からせてやるには、これくらいしなければいけない。 「……妾も聞きたい。南から兄上の軍勢を木京へ招き入れるつもりかえ? そのようなことをすれば、そなたの大事な兄だけでなく、鴉威の者も大勢死ぬことになろうぞ」  傍らで聞いていた雪加が、鼻血を流す広鸛を助け起しつつ、口を挟んで来た。  青い顔をしている。威国に仇なすアビの行動が全く理解できず、不安しか覚えなかったのだろう。  アビはふんと鼻を鳴らした。 「伝えるのは羽林軍を中心にした華人の兵士のことだけだから問題ない。死ぬのは華人だけってことだ」 「……」 「一応、お前が川を渡るための船と路銀くらいは用意してやるが、その先は勝手にしろよ。いいか、もう一度言うが、お前が途中で野垂れ死んでも、俺は痛くも痒くも無いんだ。お前は自分の命を助けるため、全力でやり遂げろ」  軍隊の指揮官としては無能ながら、この男の良く回る舌と元の肩書には利用価値があるとアビは考えたのだ。羽林軍の元総都督ならば、単身で乗りこんでも郭宗と直々に話す機会くらいは得られるだろう。  この男は戦場から逃げ出したことを悔やみ自害して果てるわけでもなく、薄汚い格好をしてまでコソコソと生き延びている。そんな奴なら自分の命を守るためには何でもするはずだ。  咄嗟に思いついた考えではあるが、嘴広鸛を手に入れたという僥倖を生かさない手はないのだ。  話を終えると、アビは早速広鸛に渡す機密文書を作ることにした。  イスカの側にいたので、アビは詳細なことまで知っている。ゆえに瑞鳳(ルイフォ)宮へ戻ることなく書くことは出来そうだが、そのためには紙と筆が必要だった。  王檣の妻に命じて用意させようと思ったアビは納屋の外に出たが、扉のすぐ外に小綺麗な格好をした12、3歳の少女がそわそわとした様子で立っていたので、話を聞かれたかと疑った。そして反射的に彼女の腹を蹴り飛ばしてしまったのだった。  地面に転がった少女は悲鳴を上げ、それを聞きつけた母親が屋敷の方から血相変えてすっ飛んでくる。 「人払いを命じたはずだぞ! 何者だ!」  少女を助け起こす王檣の妻に対し、アビは怒声を浴びせた。  それに対し妻は、地面に頭をこすりつけて詫びた。 「申し訳ございません。私の娘でございます。人払いをと命じられておりましたからこそ、滅多な者ではいけないと思い行かせただけなのです」 「余計な気を回すな」 「ですがお側に置いていただければ、何かにつけてお役に立ちましょう」  確かに。今のように必要な物がある時の連絡係としては、彼女は適任であろう。  しかしアビはこの女の魂胆を見抜いていた。  娘とアビの接点を作ることで、縁談にまで話を進め、明家と王弟との絆を今以上に深めたいに違いない。夫に実力が無いことは妻も分かっていよう。地位を固める為には血縁関係を利用するしかない。  アビは(ごみ)でも見るような目で、地面に伏せている王檣の妻とその娘を見やった。  娘が話を聞いていたかどうかが分からない。  秘密が露呈する恐れがあるなら即刻斬り捨てたいところだ。しかしさすがに王檣の娘を手にかけるわけにはいかないか。そしてこの母親もそこまで考えて娘を行かせたのだろう。  憤懣(ふんまん)やるかたないアビは、唾棄と共に言い放った。 「王檣の娘なんかに興味は無い。遊ぶための女ならもう連れてきているからな。お前らは俺の指示した通りに動いてりゃそれでいいんだよ」 「……失礼いたしました……」 「分かったらとっとと引っ込め。あぁ、でも紙と筆は今すぐ持ってこい。娘ではなくてお前自身がな。俺はここで待っていてやるから」  華人達の目が納屋の中を探らぬよう戸を閉めたアビは、その前に胡坐をかいて座った。  そして母娘が大慌てで退散する様を、無様な奴らだなと舌打ちしながら見送ったのであった。
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