六章 疑念の先

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三.  アビはイスカの従者であり、部下というものを持っていない。  だからこういう、事を起こしたい時には叔父である(ミン)王檣(ワンチァン)の手を借りねばならず、日が暮れる頃、職務を終えて瑞鳳(ルイフォ)宮から戻って来た彼に対し、協力を依頼する流れになった。  もちろん何をするのかは伝えないし、(ズイ)広鸛(グゥンガン)の素性も明かさない。ただ、金子と郭までの地図を用意させ、人手も少しばかり貸してくれるように言っただけだ。  アビは叔父が嫌いだった。  明家の連中は僅かな褒美と引き換えに、後宮の女官だった昭君(シャオジュン)を蛮族の元へ嫁がせることに同意したのだ。  もちろん皇帝の命令は絶対であり、下級貴族でしかなかった明家に逆らうことなど許されなかったのだろう。それは分かっていても、夫の息子との婚姻を断って欲しい、帰国したい、と文を送り続けた母に冷淡な対応をしたのは、間違いなくこの家の者達なのである。  その辺りのことに王檣自身がどれだけ関わっていたのかは知らないが、出世欲しかない無能な叔父と睦み合う気には到底なれなかったのである。  こうして夜遅くまで念入りに準備をしたアビは、翌日のまだ夜が明けきらぬうちに、捕縛した嘴広鸛と王檣から借りた三人の下僕らを連れて木京を離れた。  雪加(シュエジャ)は納屋に置いていくことにした。さすがに彼女を連れて行くのは面倒だったのだ。  納屋の外から鍵をかけておき、もちろん鍵はアビが持っておく。  飲み水と握り飯だけは置いていき、明家の者達には誰もここへ近づかないよう釘を刺しておいたから、これで二、三日は放っておいても大丈夫だろう。  アビは叔父を全面的に信用しているわけではなかったが、彼が甥とは一蓮托生、と理解していることは分かっていた。  そこに温かい肉親の情はない。  二人の間には血縁以上に、支配する者とされる者の差が横たわっているからだ。  鵠国(フーグォ)が滅んだ直後はその血縁を盾に、王檣から馴れ馴れしい態度を取られることもあったが、アビは叔父に対して常に絶対服従を求め、そのように振舞ってきた。  おかげでこの愚かな男もこの頃は自分の置かれた立場を理解し、ようやくおとなしくなってきたところだった。  やはり華人に対しては高圧的に臨まなければいけないな、と再認識している次第である。  さて、木京を囲む城壁の南端は長河(チャンファ)をかすめているくらいだし、その岸辺まではすぐに出られた。アビは川沿いの小さな村で小舟を一隻買い取ると、そこで夜を待った。  日が高いうちに南へ渡ろうとすると、川を監視する兵士に見つかってしまうからだ。  しかも手に入れた舟は小さくて、流れの早い長河では漕いでもなかなか前へ進まないから、できるかぎり舟に乗る距離を短くしてやらねばならない。もしも下手なところで渡らせれば、流れに負けて北岸へ逆戻りしてしまうこともありえる。  そこでアビは辺りが暗くなると下僕達に小舟を担がせ、葦切(ウェイチェ)へ歩いて渡った。  つい先日、戦に巻き込まれたばかりの川の中の小島は、南へ渡るための最短路であり、この島には平時でも浮橋が北岸側から一本かけられている。  天帝(ティェンディ)を崇める民らが、この豊かな大地を与えられた盟約の地へ詣でるためだ。  しかし昼は賑やかなこの島も、岩だらけの小島であるがゆえに人が住める場所はほとんどなく、故に夜にこの島に残っているのは、参拝客を見込んで店を構える商売人と、川を許可なく超えようとする不届き者を見張る兵士くらいのものだ。  アビと嘴広鸛、それに下僕達は、そんな人気のない島の中を無言のまま歩いた。  この島は切り立った岩で覆われているので馬は使えないし、小舟を浮かべられる岸辺も限られていた。  月明かりだけを頼りに、岩の上を歩くのはとても難しく、小舟を運ぶ下僕達だけでなく、手を後ろに縛られた広鸛は特に歩きにくそうにしていたが、アビは容赦なく彼らを追い立てる。  この島を見張っている兵士らに見つかりたくなかったのだ。  何しろアビが今やっていることは、威国(ウィーグォ)への裏切り行為である。  もちろんアビ自身にそんなつもりはない。イスカが鴉威(ヤーウィ)の長としてあるべき姿へ戻るための、やむを得ない処置なのだ。  アビの密書に踊らされた郭宗(グォゾン)が南から攻めてきたら、華人(ファーレン)同士が相打つことになる。そして郭宗は当然勝利するだろうが、彼が戦で疲れて弱体化したところを鴉威の兵が倒せばそれでよい。  そうすれば華人の兵士達を一掃できて、鴉威の兵だけが残る。  それでいいではないか。  イスカも華人より故郷の民の方が強いことを改めて悟り、今のように華人どもと協力する必要性なんて感じなくなるはずだ。
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