六章 疑念の先

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 そんな思いを噛み締めながら、アビは暗闇の中を先へ進んだ。  葦切は元々が切り立った岩で形成された小島で、それが水の流れに触れる側面は随時浸食されていくから、ますます崖が険しくなる。  それでも唯一島の東側だけは流れが若干緩やかになっており、どうにか岸辺へ降りることができる場所がある。しがみつくように岩を降り、苦労して小舟を川に浮かべた時には、朧月が天の頂へと上っていた。  ここは岩陰になっているので、島の警備をしている兵士らに見つかることも無いだろう。警戒感を緩めたアビは下男らに松明を持たせると、広鸛の縄を解いてやり、彼を舟に乗せた。  そろそろ夏も終わりを迎えるせいなのか、先だって戦でこの川まで来た時よりも、水面を撫でるように吹き抜けていく風は冷たく、大汗をかいてここまで来た身には心地よかった。 「俺が手伝いをできるのはここまでだ。この先はお前一人きりだからな。抜かるなよ」 「……うぬは雪加姫をこれからいかがする気か?」  小岩の上に立って広鸛に櫂を渡すと、小舟の中に座った彼が尋ねてきた。  彼が雪加の許婚であったことをすっかり失念していたアビは虚を突かれ、そして次の瞬間ケラケラと笑い声を上げた。 「安心しろ。これからも俺が存分に愛でてやるさ」  アビが初めて雪加を犯した時、彼女は男を知らなかった。つまりこの男とは何も関係を持っていなかったということだ。その事実を今更ながら認識したアビは、嗜虐的な笑みを浮かべて広鸛を眺めたのだった。 「お前は知らないだろうが、あの強情女も体を蕩かしてやれば、いい声で啼くんだぞ。お前が無事に役目を果たしてきたら、声くらいは聞かせてやるよ。楽しみにしてろ」 「こ……この夷狄(ウィーディ)め!! 美しき姫の身体を弄び、耐えがたき屈辱の海に投げ込むとは……許せぬ。八つ裂きにしてその(はらわた)喰ろうてくれるわ!!」 「ははは。そのためには郭宗を唆して、木京へ攻め込んで来いよ。待ってるぜ」  アビは広鸛の呪詛の言葉をニヤニヤと笑いながら聞いてやった。  これでいい。広鸛がアビへの復讐心に駆られれば、それは郭宗の元へ辿り着くための原動力となるはずだ。戦場から逃げ出すような臆病者だけに、これくらいの強い気持ちを持たせておいた方が安心というものである。  しかしアビが機嫌よくいられたのはここまでだった。  背後で下男達が突然跪き、その違和感に気付いてアビが振り返ると、たくさんの男達が続々と岩を降り、こちらへ近づいてくるところだったからだ。 「……何をやっているんだ、アビ?」  彼らの先頭に立っていた兄が、低い声で問いかけてきた。  それは込み上げてくる激情を堪え、冷静でいようとしている心情がよく伝わってくる声だった。 「八哥(パーグェ)……」  アビは激しく狼狽えた。一体どうしてイスカがここにいるのか?  何がどうなっているのか、咄嗟に判断できなかったのだ。  まさか、明王檣が裏切った……?! 「そいつは何者だ?」  アビが憧れて止まない蒼い瞳が、訝し気に細められて小舟の上で止まる。  そして彼の問いかけと同時に、彼の背後で松明を持った人影がいくつも揺れた。  イスカを含め、男達は全員が武装しているようだった。長剣を帯びているし、鎧も着こんでいる。  対して今のアビは短剣一本しか持っておらず、部下は三人の下僕だけなのだ。 (このままじゃダメだ)  そう悟ったアビは、考えるより前に己の身体を跳躍させた。 「行け!」  川の中に足を踏み入れて広鸛の乗った小舟に飛びつくと、それを力いっぱいに押して岸から離したのだ。  水しぶきが跳ね、突然の衝撃に大きく揺れた小舟の上では、広鸛が転げた。  長河(チャンファ)の流れは速いので、その流れにさえ乗れば彼はこの場を脱出することができたはずだ。  だから広鸛自身が櫂を操り、あともう一漕ぎでもしてくれたら、楽々追っ手をかわせたはずだったのだ。  しかし船の上で転げた彼はもたついてしまい、そこへ追いついたイスカの部下達によって取り押さえられてしまった。  それと同時に飛びかかってきた別の男達により、アビ自身の身柄も押さえられてしまう。  腕を両側から抱えられながら冷たい水の流れの中から引っ張り上げられたアビは、広鸛が小舟ごと岸に戻されるのを目にすることになった。 (……あぁそうだった。この男はこういう肝心なところできちんと動けない奴なんだ。だから戦にも負けたんだった)  それは彼と直接言葉を交わしたアビにも、十分に分かっていたことだったのに。  失敗した。こんなろくでもない男を使おうと思ってしまったアビが、ただただ浅はかだったのだ。
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