六章 疑念の先

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***  イスカは明王檣からの通報を受けて、この葦切へ来ていた。  数刻前、夕方の政務が終わる頃に恐れながらと目通りを願って来た王檣は、昨日からアビが良からぬことを企んでいる様子だと申し出た。  そこで彼は貸して欲しいと言われた下男の中に目端の利く者を紛れ込ませた。その者からの知らせにより、アビが今夜葦切から渡河を試みようとしているようだと判明したとのことだった。  イスカにもアビが何を考えているのかは分からなかったが、分からなかったからこそ、自ら動いた。弟のことである。余人の報告を受けるより、この目で状況を確認したかったのだ。  イスカは二十人ばかりの手勢を引き連れてここまで来ていたが、その中には華人も数名いた。  彼らは羽林軍の総都督であった広鸛の顔をもちろん知っていたし、彼が持っていた密書の内容を読むこともできた。 「なんでそんなことをしてくれたんだ……」  軍事機密が事細かに書かれていたことを聞かされたイスカは、天を仰いで嘆息した。  アビが羽林軍(ユーリンジュ)のことばかりを正確に書いている点から、その魂胆はすぐに読めた。華人の兵士達を囮にし、郭宗の軍勢をおびき寄せようとしたのだ。  こんな恐ろしい計画を立てた弟に対し言いたいことは山のようにあるが、イスカは彼を捕らえるだけにして一旦待たせておき、まずは広鸛と話をすることにした。  小舟から降ろされ、イスカの前に引っ立てられた羽林軍の元総都督は、予想通りというべきか、怯え切った様子で震えていた。  かつては美男子として瑞鳳(ルイフォ)宮でも名を馳せていたらしいが、今はただ、無精髭がみっともないだけの浮浪者である。  この男が部下達を見捨て、戦場から逃げ出したことはもちろん知っている。だからイスカは最初から好意的とは正反対の立ち位置で、広鸛を見下ろしていた。 「嘴広鸛とやら。お前は郭へ行こうとしていたんだな?」 「……」 「それで、この密書を手土産にすることで年始の変での敗戦の責を免れ、あわよくば郭宗に取り入ろうとしていた。そういうことだな?」  広鸛の懐に入っていた紙束を見せつけると、彼はそれはアビが仕組んだことで、自分は関係ないと喚いた。 「そ、それに、年始の変で木京(ムージン)が占領されたのは我のせいではない」 「ほう……?」 「我はその手前の戦に敗れただけ。都へのうぬらの侵入を許したのは木京の守備をしていた者達である。我が総都督であるからと、全ての責任を押し付けるのは間違っていよう。それに戦とはそもそも時の運ではないか。我とて百戦百勝とはいかぬのは当然のことで……いや、むしろ天帝が我に試練を与えんと欲しただけなのである。この苦難に満ちた試練に耐え、我はいつの日か祖国を解放し、木京に凱旋することになろう」 「……よく回る舌だな。羨ましいくらいだ」  イスカは呆れ果て、そしてアビがこの男を使おうとした理由を察した。  自己弁護のための熱弁を臆面も無く(ふる)える総都督殿なら、郭宗への使者としては適任だろう。彼が新皇帝から好感を得られるかはともかくとして、密書を渡すことくらいはできそうだ。 「それで、お前はいつからアビとつるんでいたんだ?」 「き、昨日である」 「昨日だと?」 「木京の街中で鋭意潜伏中であったところを、無念にもあの男に囚われ、計画に協力するように命じられた」 「……なるほどな」  明王檣もアビが昨日の日中に屋敷へやって来たと言っていた。  そして郭への地図を用意させたそうだが、昨日になってそのような準備をやっていたということは、本当に偶然に嘴広鸛を街の中で見つけたのだろう。  そしてこの偶然を生かそうと考えた。  良い判断だとイスカは思う。  極秘の行動を起こすには、素早い判断と実行力が何より大切なのだ。  ただ弟は頼る相手を間違えた。  娘を蹴り飛ばされてまで、王檣が甥に従うわけが無いではないか。  むしろアビの行動を訴え出て、その手柄を自分の出世に利用することを考える方が自然だ。  そんな単純な心情すら読めなかったのは、アビが華人を嫌う気持ちが強すぎたからだろう。  弟の偏った気持ちが悔やまれてならない。  イスカは込み上げてきた苦々しい想いを飲み込むと、懐に密書をしまい込んだ。 「こいつはもちろん渡せない。だが、お前には代わりの情報をやる」  イスカは捕縛されている広鸛に近づき、その耳元に口を付けると、そっと囁いた。 「燕宗(イェンゾン)は生きている。俺がその身柄を預かっている」 「え……」  驚きすぎてうっかり悲鳴を上げそうになる広鸛に対し、イスカは声を出さないようにと蒼い瞳に力を込めて睨みつけた。
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