六章 疑念の先

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 そして彼から顔を離すと、今の話は郭宗にだけ伝えよ、と念を押した。  そう。イスカもアビと同じく、偶然手に入れたこの元総都督殿を高貴な伝書鳩と認識し、利用できると考えたのだ。 「いいか? 故に和平に応じよ、と郭宗に提案するんだ。俺はこの長河を国境にして両国がともに栄えればよいと考えている。そちらが河南(ファナン)で鵠国を再興しようと、それを妨げる気は無い。新皇帝の即位を歓迎する」 「な、なんと……」  与えられた情報があまりに大きく、どう処理して良いか分からないでいる広鸛に対し、イスカは自分の懐に秘めていた短剣を差し出した。  柄を山羊の角で作ってある、鴉威の伝統の技法で作られた短剣である。 「羽林軍の指揮官であったお前の言う事ならば、郭宗も話くらいは聞くだろう。しかも俺を襲い、この短剣を得たのだと言えば信憑性も上がる。もしもできなければ、俺が南へ攻め込む時、真っ先にお前の首を刎ねるものと思え」 「で……では我からも、条件がある」  昨日からずっと、蛮族の兄弟にいいように扱われていることを、さすがの広鸛も悔しく思ったらしい。  そよ風でもなぎ倒されそうなか弱い声ではあったが、一応反論してきた。 「五姫様を……雪加姫を助けよ」 「うん?」 「アビは今、姫を明王檣の屋敷の納屋に閉じ込めている。あの男は昨日から……いや、恐らくそれ以前からずっと、姫の御身を……」  言葉を詰まらせ、悔しさに震えた広鸛の声が、イスカの身体をも共振させた。  この男は……一体何を言っているんだ? 「姫は天女と見まごう程の美貌の持ち主。天帝がこの世へ遣わしたもうた、地上で最も誉れ高き美姫であられる。その白磁の頬が悲しみの涙で濡れることを、我は見過ごすわけにいかぬ。うぬが和平を願うのならば、姫の御身をまずは郭宗陛下にお返しするのが、物事の順序というものであろう」  比喩と形容詞が多すぎて、華語(ファーユィ)が得意ではないイスカには咄嗟に理解しがたかったが、広鸛はとにかく美しい姫君の身の安全というものを求めてきたようだった。 「……お前にとやかく言う権利は無い」  イスカもまた、昨日のアビと同じ言葉を浴びせたが、その言葉には先ほどよりも力が無かった。  心がひどく動揺している。  しかしここは敢えて語気を強めて広鸛を睨みつけた。 「お前は俺の言ったように務めを果たせばそれでいい。その良く回る舌は郭宗の前でだけ使え」  こうして広鸛を再び小舟に乗せ、南岸へ向けて送り出したイスカは、岸辺を離れ、岩の上で待たせていたアビの元へ向かった。  会話の内容はもちろん聞こえていなかっただろうが、松明をつけた小舟が広鸛を乗せて再び川の中を進みだしたことは、夜目のきくアビにはしっかり見えており、彼は開口一番に兄を詰った。 「なんで、あいつを行かせたんだよ」 「お前こそ、どうしてこんなことをした」  厳しい声音で応じるイスカは、もちろんアビを許す気なんて無かった。  信頼を裏切られた気持ちが強い。  明王檣から報告を受けた時には、まず先に彼の言うことの方を疑った程に、この異母弟をイスカは可愛がっていたのだった。  しかし戦勝の宴で言い争って以来、アビは確かに様子がおかしかった。政務が無いから来る必要は無いと伝えていたが、それでもイスカの前に一度も姿を見せなかったし、政務を再開した昨日ですら病を理由に自室へ籠っていた。  イスカはそれを弟が拗ねているだけだと思って気にしていなかったが、王檣からの通報後に彼の自室を調べさせれば、床に穴が開いていて、そこから隠し通路が続いていたから驚いた。  イスカは通路の先にあった水の中へ部下達を潜らせることまではしなかったが、後宮に詳しい白頭翁を呼び出したことにより、この脱出路が木京の街中へ通じていることは判明した。  しかも浮き島に閉じ込めていたはずの鴎花がいなくなっていたことから、アビが彼女を連れて出て行ったことは推測できた。  アビは一体何をしたかったのだろう。  その行動には計画性があるようで、まるで整合性がとれていない。こっそり抜け出したいなら、穴は塞いでおくだろうし、そもそもアビなら鴎花を連れて堂々と後宮を出入りすることくらいできるはずだ。わざわざ危険な水路を通り抜ける必要性は無い。  しかしどれだけ行き当たりばったりの行いであろうとも、やっていい事と悪い事はある。
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