六章 疑念の先

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 イスカはアビの手跡で書かれた密書を懐から取り出し、弟の眼前に叩きつけた。 「こんなものを持ち出せば、威国は無事ではすまない。お前は何を考えているんだ」 「襲われるのは羽林兵だけだから問題ない」 「彼らも威国の民だぞ」 「違う。あいつらは華人だ」 「威国の民を損なう者は、誰であろうと許さん!」  イスカはアビを叱責し、その頬を引っ叩いたが、倒れたアビはそれに対し目を剥いた。  殴られたことに反発したのではない。兄の反応が、彼の予想していたものではなかったからだ。 「なんだよ……どうしてここで剣を抜かないんだよ」  アビは倒れた姿勢のまま兄を見上げた。夜の闇より濃い黒い瞳が、今にも泣き出さんばかりに揺れている。 「俺を斬れよ。それが当然だろ!!」  まるで兄の手で斬り殺されることをこそ望んでいたと言わんばかりの異母弟の主張に、イスカは眉をひそめた。  アビが生母の苦悩故に、歪められた幼少期を送ってきたことは知っている。  それがこの自暴自棄ともいえる叫びに現れているように、ふと感じたのだ。 「俺は敵方にこちらの情報を渡したんだぞ。なんで手ぬるくなってるんだよ。八哥は腑抜けた華人どもに寄り添い過ぎて、鴉威の心を忘れてるんだ」 「黙れ。勝手なことを言うな」 「だってそうじゃないか。果断即決を信条とする鴉威の王が、殺すべき奴を殺せなくてどうするんだ!」  アビは声を張り上げた。  それはイスカの連れている部下達にも聞かせて、自分の罪を明確にするためであろう。  発言は鴉威の言葉によるものだったから華人達には分からないようだったが、それでも彼を見守るイスカと鴉威の者達の表情を見れば、これが異様な状況であることは察しがつく。  周囲が唖然としていることも構わずに、アビは叫び続けた。 「弟だからって、躊躇うのは無しだぞ。信賞必罰は皆を従えるための当然の習いだ。ここで俺を斬らなきゃ、みんなに示しがつかない。早く斬れって!」 「……地下牢にでも放り込んでおけ。こいつは頭を冷やす時間がいりそうだ」  興奮している弟を持て余したイスカは、側に控えていた部下に命じて連行させた。  それからアビの連れていた下僕達のうち、王檣が連絡役として紛れ込ませていた青年に話しかけた。 「アビが女を連れていたとは王檣からも聞いていたが、納屋に閉じ込めているというのは真か? どんな女だ?」 「はい。その素性は分かりかねますが、若い娘であったことは間違いないです」 「ではその女を瑞鳳宮へ連れて来るように王檣に伝えよ。それからお前には褒美をやろう。よくアビの居所を知らせてくれた」 「ははっ」 「もちろん王檣にも褒美を与える。期待しておくように伝えておけ」  そうは言ったが、甥を売り飛ばすような真似をした彼に、あまり良い感想は持っていない。  大体、通報するならアビが出て行った直後、朝早くに言いに来れば良かったのだ。  それを夕方近くまで渋っていたということは、今まで通りアビと組んでおいた方が得か、それとも甥を突き出した方が得か、秤にかけて悩んでいたということだろう。  甥から尊大な態度を取られることを元々不服に思っていたところに、娘を蹴り飛ばされた点が決め手にはなったのだろうが、あまりに判断が遅い。やはり彼に与えるのは名誉職だけで十分そうだ。  後始末を部下に任せたイスカは、一足先に瑞鳳宮へ戻るべく、僅かな供を連れて葦切を離れた。浮橋の袂に馬を残していたから、これに跨る。  アビについても考えなければいけないが、今のイスカの頭の中では、先ほど嘴広鸛に言われた言葉が回っていた。  あの男はあり得ないことを言っていたのだ。  昨日から雪加はアビと一緒にいた、と。  そして何より、痘痕面のはずの彼女が、見目麗しい姫君であると……。  イスカは大きく頭を振って考えることを止めた。  これ以上の思考は堂々巡りになるだけ。無駄でしかない。  胸に込み上げたわだかまりを解くためには、早く王妃の元へ戻るべきだ。  イスカは供をする部下に声をかけた。 「木京まで一気に駆けるぞ。ついて来い」  月明かりに照らされた道を、イスカは勢いよく駆けだした。  この疑念の先にある真実がどんなものであるのか。  それを知ることには、臆病とは縁が無いイスカですら躊躇ってしまう。しかし威国の王として、真実から逃げ出すわけにはいかない。  イスカは馬の尻に鞭をくれると、重い闇に沈む夜道を急いだのだった。
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