六章 疑念の先

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四.  イスカと過ごした三日間の休暇の翌日から、鴎花(オウファ)の侍女は一人増えていた。  イスカの妻になるべく、はるばる鴉威(ヤーウィ)の地からやってきたウカリである。  アトリら他の女性達は華人(ファーレン)達と婚姻を結び、近々この後宮を出て行くことになったが、彼女にだけは残ってもらうことにしたのだ。  これについては白頭翁(バイトウウォン)とイスカと共に相談して決めた。  今のままでは先代族長の妻達を全て追い出した格好になり、鴎花は鴉威の者達から睨まれることになるかもしれない。  ウカリは五十代という高齢故にイスカと褥を共にする気が薄く、そんな彼女だけでも後宮へ残した方が、鴉威の者達からの反発を避けられるだろうと、白髪の老人は語ったのだ。  愛欲渦巻く後宮で宦官として長く務めてきた彼は、こういう時の人々の心の機微をよく知っており、鴎花とイスカも彼の意見を受け入れることにした。  そしてウカリ自身も、これから言葉の通じない華人に嫁がされるアトリ達の苦労に比べたら自分は恵まれていると感じたようで、痘痕面の王妃の侍女という立場も快く受け入れてくれたのだった。  こうして香龍宮へやってきたウカリだったが、カタコトながら華語(ファーユィ)を操ることもできるし、休暇から戻ってきたばかりの小寿(シャオショウ)とも衝突することなく、穏やかに過ごしてくれたから安心した。  そして鴎花には彼女に対しての期待もあった。ウカリから鴉威のことを学べば、イスカがもっと快適に過ごせると思ったのだ。  鴎花はその考えを実践し、さっそくウカリから料理を教えてもらった。 「それでアーロールが軒下に干してあったのか」  日付が変わった明け方近くに香龍宮へ戻ってきたイスカは、懐かしい故郷の食べ物を目にしたものだから目元を和ませていた。  アーロールとは山羊の乳を家畜の胃袋に入れて固め、これを干したものである。乳を主食にする夏場には日常的に食べられているものだそうだ。 「はい。気候が違うので上手く作れるか分かりませんが、これからはウカリと相談し、乳粥だけでなく、もっといろいろなものを作りますね」 「それは楽しみだな」    今夜は戻らないと聞いていたのに、明け方のわずかな時間だけでもイスカが香龍(シャンロン)宮へ立ち寄ってくれたので、鴎花はそれを素直に喜んでいた。  たった今まで眠っていたので、夜着の上に薄いひはくを羽織っただけの格好のままイスカに茶を淹れる。  こんな時間に悪いが、どうしても茶を飲みたいとイスカに所望されたのだ。  湯を沸かすところまではウカリと小寿にも手伝ってもらったが、イスカが皆はもう寝ていいぞ、と言うので彼女らは部屋へ戻し、鴎花は彼と向かい合って、絨毯に置いた盆の上で茶を淹れた。  彼がこの時間まで何をしていたのかは知らなかったが、どうやら馬に乗って走ってきたらしいことは、汗をかいていたことで分かった。着替えた際に渡された麻の着物からは、むわっと広がる湿気と汗と馬の臭いが漂ってきたのだ。 「随分遠くまで行かれていたのですね」 「いや、それほどでもない。一昨日の景徳(ジンデェア)までの距離と変わらないくらいだ」  イスカが言う景徳とは、木京の北にある寺で、良い粘土が採れる焼き物の産地でもある。  いつだったか遠乗りに行こうと話していたのを覚えていた彼が、この三連休を使って鴎花を連れて行ってくれたのだ。 「景徳は曼珠沙華が一面に咲いていて綺麗だったな」 「はい」  鴎花はにっこり笑って頷いた。  これまで後宮を出たことの無かった鴎花には、瑞鳳宮の外に出るだけでもう、感動の連続だった。  その上、イスカの馬に乗せてもらったのだ。楽しく無いわけが無い。  雪加(シュエジャ)とアビの縁談など、気になることは多くあるのだが、こうやってイスカと二人でいると、それだけで満たされた気持ちになれる。 「このところようやく、華人達が花が咲いたの散ったのと騒ぐ意味が分かってきた。中原では季節ごとに次々と花が咲くから、気になって仕方ないのだな」 「ふふふ。中原の秋はまた美しくなりますよ。寒さで紅葉の葉が色づいて赤く染まるんです。それが散っていく様は、神秘的ですらあります」 「そうか。鴉夷は草しか生えないから、木が葉を落とすというところから、もう想像がつかないが、お前が言うのだからよほど綺麗なんだろうな。中原で迎える初めての秋なのだし、華人達を見習って、詩の一つでも詠んでみるか」  今夜のイスカは饒舌だった。  何か良いことでもあったのかしら、と鴎花が思ったくらいだ。  鴎花もまたイスカに話をしたいことがあったので、ちょうど良かった。  彼の話が終わったら聞いてもらおうと思いながら、鴎花は急須を傾け、白磁の茶碗に茶を注ぎ入れた。 「……なぁ鴎花」 「はい」  問いかけはごく自然で、茶を淹れることに集中していた鴎花は何の違和感もなく返事をしてしまった。  顔を上げてイスカの表情を見て、そこでようやく自分の失敗に気付いたのだ。 「あ……」
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