七章 真相の底

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七章 真相の底

一.  話は少し戻る。  アビが紙と筆を受け取るため、ほんの少し納屋から離れていた間だけ、雪加(シュエジャ)(ズイ)広鸛(グゥンガン)と二人きりで話をする機会を得ていた。 「広鸛、大事無いかえ?」  雪加は縛られてもいなかったので、両手を縛られたまま床に転がされていた広鸛を抱き起すと、彼の手の自由を奪っている縄に触れた。  しかし鴉威(ヤーウィ)独特の結び方をしているようで、解き方が分からない。  そして彼も助けてほしいとは言わなかった。 「ご案じなさいますな。下手に解けばあの男が姫様を咎めるのは必定。このままで構いません」 「すまぬな、広鸛」 「それより雪加姫がご無事でこれほど嬉しいことはありません。天帝は美しきを愛でるお方。雪のように白けき肌を持ち、光り輝く翡翠の如き姫様には、天帝(ティェンディ)の格別なご愛顧があることを改めて知りました」 「……それはまぁよい」  雪加の美しさを讃える歌を詠み、翡翠姫の名を世に知らしめるきっかけを作ったのはこの男である。  高貴な姫君として暮らしていた頃は、広鸛の言葉はただひたすらに耳触りが良かったが、年始の変以降、雪加は耐えがたい苦難の日々を送ってきた。さすがにこの男の舌の軽さも見抜けるというものである。  それでも雪加は固く戒められた広鸛の手を握ってやった。  木京の片隅で身をひそめて暮らしていた彼のことを、命の危機に晒すきっかけを作ったのは他でもない雪加なのである。  それに旧知の人に会うことができて、それ自体は純粋に嬉しい事だったのだ。 「そなたは今までどこにおったのじゃ?」 「実は、姫様の乳母を務めていた女に助けられまして」 「秋沙(チィシャ)に?! 秋沙が木京(ムージン)におるのかえ?!」  雪加が歓声を上げてしまったのは当然のことだった。  秋沙には数年前から会っていないが、雪加は心の底から慕っている。  何しろ生母である(ツェイ)皇后は雪加の美しさを愛で、可愛がってはくれたが、実際に身の回りの世話をしてくれたのは乳母なのである。  雪加を産んだ時にはもう高齢だった皇后には、育児を行うだけの体力が無かったのかもしれないが、それでも彼女はどちらかと言うと雪加を着せ替え人形のように扱っていたフシがある。例えば幼い雪加の髪型を今流行りの新しいものにしようとしたのに娘が途中で飽きてしまい、むずがって動いたら、激しく折檻した。  それは皇后陛下のご母堂様としての愛ゆえなのです、姫様にはいつも美しくあって欲しいと願われているからこその振る舞いです、と秋沙から諭され、雪加もそういうものかと納得していたものの、やはり心から甘えられたのはいつでも側にいてくれる秋沙であった。  だからこそ秋沙の娘として、彼女から特別に大切にされている鴎花(オウファ)に対しては嫉妬心を覚え、彼女の痘痕をことあるごとに嘲笑ってきてやったのだが、それにしてもまさか、彼女がこの木京にいるとは!   「この屋敷の裏口を出たところに寺があります。五重塔があるので場所はすぐに分かりましょう。その寺の山門から入った左側に大きな松の木があり、その下に半分傾いた小屋がありまして。寺のご厚意でそこに彼女と共に住んでおります」 「なんと……」 「秋沙は姫様をお助けしたい一心で、(めしい)た身で木京に出てきたと申しておりました。私も雪加姫を蛮族どもの手からお救いしたい気持ちは同じ。相通じる想いが天帝に届き、我らを引き合わせたのでしょう」  こんな話を広鸛から聞いていたので、雪加は翌朝、アビが彼を連れて出て行くと同時に行動に出た。  アビは鍵をかけていったから雪加は勝手に出ていけないと思い込んでいたようだが、この納屋は造りが大分古く、漆喰で固められた壁がボロボロと剥がれ落ちることには、前日から気付いていた。  そして案の定、一人きりになった雪加が壁を力いっぱいに押してみると、一ヵ所だけメキメキと壊れるような音がする。ここが弱いと判断した雪加はこの後一刻ばかりの時間をかけて壁をこじ開け、表へ抜け出すことに成功したのである。   外は良く晴れていた。彼がこの納屋に近づくなと命じているせいなのか、見張りもいない。  こうして雪加はこっそりと屋敷の裏口から抜け出し、広鸛から教えられた寺へと向かうことができたのだ。
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