一章 翡翠の姫

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 しかも顔を近づけると杯の淵からは強い酒精が立ちのぼって来てくるから、鴎花(オウファ)は顔を歪めた。  それでも覚悟を決めて飲み干そうとするも、口にほんの少し含んだだけでやはり降参。胸を押さえてむせこんでしまう。 「……なんだ。この程度も飲めないのか」  苦しむ鴎花をつまらなそうな顔で一瞥した彼は鴉夷(ヤーウィ)の言葉で呟くと、寝転んだ姿勢のまま干し棗を一つ口に放りこんだ。 「それでお前はあの夜、どうして逃げなかったんだ? 皇帝も皇后も、家臣を見捨てて逃げ出したのに」 「そうなのですか?」  それは襲撃の日以来、初めて聞く情報だった。  鴎花が目を丸くしたのを澄んだ蒼い瞳で眺めつつ、男は棗の皿に再び手を伸ばす。   「そういえばお前は、俺が翡翠姫を手に入れるために挙兵したと思いこんでいたな。もしかしたら皇帝達も同じように考えたのかもしれない。だからお前を残しておけば良い足止めになる……いや、連れていけば俺がしつこく追いかけてくると恐れたのかもしれないな」 「そんな……」  鴎花は燕宗(イェンゾン)の名誉を守るため言い返そうとしたが、言われてみるとあの状況は確かに不自然だった。  燕宗には大勢の妃がいて、子供もそれぞれに産まれているが、正妻である(ツェイ)皇后が産んだ雪加(シュエジャ)は何かにつけて優遇されていた。侵略者が襲ってきたのなら、真っ先に彼女に知らせが入って当然だったのだ。 (まさか雪加は本当に捨て石にされた……?)  青ざめる鴎花を見て、男は唇の端を器用に歪めた。 「娘を見殺しにしてまで逃げ出すとは情けない奴だ。こうやって俺達に都を乗っ取られたのは、当然の結果であろう」 「こ、皇帝陛下に責任を押し付けないでくださいませ。兵を集め、戦を起こしたのあなたでしょう」  鴎花は毅然として反論した。  これが常の鴎花であったなら、唯々諾々と彼の言葉を聞き入れただろうと思う。  しかし今は翡翠姫を演じているのだ。誇り高い大国の姫が、父帝を()られたまま引き下がるのは良くない。 「あなたは平和だった国に戦火を撒き散らし、罪の無い者達を殺し、後宮で狼藉を働きました。こんな横暴は許されませぬ」 「それはお前が真実を見ていないだけだ。どうしてこの戦が起きたのか、その理由をまるで分かっていない」  男は精一杯の虚勢を張っている鴎花をじろりと睨んだ。そして鴎花が握りしめたままにしていた酒杯を取り上げ、中に残っていた酒をあっさりと飲み干した。 「まぁ、いい。今からその体に現実ってものを教えてやろう」  空になった酒杯を床の上にぽいと放り投げた彼は、言うなり鴎花の腰に手を伸ばして抱き寄せた。
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