七章 真相の底

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 そうだ。  こんなこと、今更認めることはできない。  雪加は鵠国(フーグォ)の第五皇女なのだ。高貴な翡翠姫だからこそ、アビに乱暴を働かれようが、辱められようが耐えてきた。  それが実は翡翠姫ではありませんでしたと言われても、はいそうですかとあっさり引き下がることなどできようか。  年始の変の折、崔皇后が雪加を連れて脱出しなかったことの理由を、唐突に理解した。  痘痕を嫌って実の娘すら切り捨てたような人が、美しいだけの着せ替え人形を大切にするはずがない。  だが雪加が翡翠姫でなかったのなら、これまでの人生とは何だったのだろう。  雪加が皇女として恥ずかしくないようにと諭され、懸命に学んできた歌も踊りも、高貴な振る舞いも、全てが全て無かったことにされるなんて、そんなことは到底我慢ならない。  雪加は翡翠姫である。翡翠姫であるべきだ。  この事実の方が間違っている。  ならば秘密を知っている者さえ、いなければよいのではないか? そうすれば雪加は今まで通りに翡翠姫でいられる……!! 「うわぁあああああ!!!!」  雪加は全身に溢れてきた想いを、ありったけの力で指先に込めた。  白磁の頬には涙が溢れ、制御が効かなくなった激情だけが体中に満ち溢れる。  やがて秋沙の身体は力を失い、その腕がだらんと垂れ下がった。  喉元から僅かに漏れていた呻き声も、止んでしまう。  それでも雪加はいつまでも母の首を絞め続けた。  真実をこの暗闇の奥底に隠してしまうこと……今やそれだけが雪加の心を支配する思いだったのである。 ***  こうして雪加はふらふらとした足取りで明家の屋敷へと戻ってきた。  この時すでに夕刻で、雪加の脱走を遅れて知った明家の者達は慌てていたが、当人が自力で戻って来てくれたので大いに胸をなでおろしていた。  彼らは雪加のことをとりあえず壊れた壁を直してでも納屋へ戻そうとしたが、雪加はそれを拒否した。 「無礼であるぞ。妾は翡翠姫である。客間へこそ案内せよ」  雪加にとって幸運だったのは、この言葉を王檣(ワンチァン)の妻が真に受けてくれたことである。  彼女は今年の年始の宴で、雪加と顔を合わせたことがあったのだ。  いや、下級貴族である王檣の妻ごときが皇女と親しく口をきくことができるわけは無く、正確には挨拶に来た彼女に対し「苦しゅうない」と声をかけただけである。だから雪加の記憶には引っ掛かっていなかったが、彼女の方は皇女様の顔や声を覚えていた。  そして雪加があまりに尊大な態度を取るものだから、彼女は逆に恐ろしくなったようだった。 「これまでのご無礼、どうぞお許しくださいませ、姫様」  畏まった彼女は、雪加を客間へ連れて行き、要求通りに美しい衣装を用意し、化粧も施してくれた。  こうして翡翠姫に戻ることができた雪加は、夜遅くになってイスカの招聘を知ると、堂々と後宮に乗り込んだというわけだ。 「……長い間、妾はこの者に騙されていたのじゃ。妾を守るためと口先では言いながら、鴎花はその痘痕面すら利用し、陛下に取り入ってのぉ……全ては己が翡翠姫になり替わろうと欲したが故の、醜い企みだったのじゃ」  翡翠姫としての正装に身を包んだ雪加は、イスカの眼前で鴎花の罪を語った。  その一方的ともいえる説明に対し、鴎花は何も口ごたえしなかった。  彼女は平伏し続け、最後には「全て姫様のおっしゃる通りです」と言っただけだった。  鴎花は自分こそが翡翠姫であることを知らないのだ。だから本物のお姫様が乗り出してきたことで、すっかり参ってしまったのであろう。  そして二人の翡翠姫が対峙するのを目の当たりにしたイスカもまた、言葉が出てこない様子だった。  自分の信じていた、そして愛していた女が、実はその身を偽っていたと分かったのだ。その衝撃は計り知れない。しかも主君を幽閉してまで翡翠姫を名乗っていたとは、不忠の極みだ。  ここまで鴎花を追い詰めても、雪加に罪悪感は皆無だった。  雪加こそが翡翠姫なのだ。  そうあるためには、鴎花を蹴落とすしか無いではないか。  そして翡翠姫でいるためならば、蛮族の王妃であることも厭わなかった。  なりふりを構っている場合ではない。  雪加にとっては翡翠姫であることの方が、蛮族なんかの妻に身を落としたと蔑まれることよりも大切なのである。
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