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鴎花はおぼつかない足取りで立ち上がると、部屋の隅に控えていた小寿ともう一人、雪加が見たことも無い褐色の肌をした年配の女の二人の前に立って命じた。
「今より、そなたらはこの姫にお仕えなさい。このお方こそが真の翡翠姫であられます」
「そんな……」
鴉威の女の方は、華語がいまいち分からないためか状況を飲み込めずに首をかしげるばかりだったが、小寿はその大きな体を震わせ、目には涙さえ浮かべている。
彼女には何か訴えたいことでもあるのだろうか。口を無駄に開閉させていたが、感情が高ぶり上手く言葉にならない様子だった。
いいのです小寿、と鴎花は彼女が口をきくことを目で制した。
「私は姫様の乳姉妹にして侍女にすぎません。それなのに陛下の情け深さに触れ、翡翠姫でありたいと願ってしまいました。全ては、過分な願いを抱いてしまった私の罪です」
あまりの急展開に狼狽え、ただただ涙を流すことしかできない小寿をむしろ励ますように、鴎花は淡く微笑んだ。
その背後から幼い男の子が顔を出す。いつの間にここへ来ていたのだろう。元々は隣室で寝ていたが、大人達が騒ぐから起きてきたようだ。いや、外はもう明るくなっていた。いつのまにやら朝を迎えていたのだ。
「杜宇も、元気でね。お母様を大事にしてあげるのですよ」
自分がかがむことで幼子と目線を合わせた鴎花は、小寿の息子に優しい口調で話しかけた。
そしてイスカに対しては改めて畏まり「本当に申し訳ございませんでした」と額を床にこすりつけて詫びた。
その後顔を上げた彼女は、しかめっ面をした彼が噛みつくような低い声で「待て」と命じるのも聞かず、屋敷を出て行ってしまったのだった。
***
こうして鴎花が屋敷を出て行ったことに対し、雪加は何の感想も抱かなかった。
むしろこれから自分が翡翠姫として振舞うことの方が重要で、一日も早くこの地位を固めてしまいたかったのである。
物心ついた時から皇女として育って来た雪加は、本物の翡翠姫がどのような振る舞いをするものなのか、はっきり分かっていた。
鴎花のように家事はしない。
ましてや獣臭い山羊の世話なんてするわけがない。
軒下に吊るされていた謎の白い塊もすべて取り払わせた。
代わりに用意させたのは香炉である。
気品溢れる香を炊き、生活臭が漂っていた屋敷の中の空気を、翡翠姫に相応しいものに一掃する。
そして部屋の中の香りが自分好みになると、雪加は琵琶も用意させた。
皇女として楽器の扱いは一通り習っていたが、一番得意としていたのが琵琶なのだ。
弦を弾き、久しぶりに奏でる嫋嫋とした琵琶の音色は、自分でもうっとりするほど美しく、そういえば広鸛もこの音色を絶賛してくれたと思い出す。
あの男は今頃どうしているだろうか。
そしてアビは?
雪加は彼らのことをふと思い出し、そして鼻で嗤った。
翡翠姫は威国の王妃になったのだ。過去の男のことなんて、何の未練があろうか。
もちろん生母である秋沙を殺めたことへの罪の意識もない。
(……あれは夢か現か)
秋沙に再会したという事実ごと、意識の中から消し去ろうとしている。この手指に残る、脈打つ肌を締め上げた感触なども全ては幻。気にしてはいけない。
大丈夫、こうやって優雅な白檀の香りに包まれていれば忘れていける。翡翠姫としての日常が雪加を支えてくれる。
こうして一日かけて優雅な暮らしを満喫した雪加は、日が暮れる頃には自らの奏でる琵琶の音色と共に、イスカを出迎えることになったのだった。
「お戻りなされませ、陛下。今日も一日、天帝のご加護と共に御身があらましたことを、お慶び申し上げます」
膝に置いた琵琶を抱き締めるようにして、雪加は夫である国王に対し優雅な礼を施した。
「さぁ、お着替えなされませ。そのように粗末な麻の衣は陛下には似合いませぬ。明日にも国王に相応しいものを妾が揃えましょう」
雪加が折角提案してやったのに、この男は目つきを険しくしただけで、返事もしなかった。
袖口に刺繍のあるこの着物を、よほど気に入っていたのだろうか。
雪加は仕方なく、別の話を持ちかけるしかなくなってしまった。
「では、すぐに食事の支度をさせましょうほどに。しばしお待ちを」
雪加は仏頂面のイスカを壁際の椅子へと案内したが、彼はそれを無視して、部屋の中央、絨毯の上に胡坐をかいて座った。
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