七章 真相の底

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 この蛮族の王は床なんかに座る習慣がいまだ改まっていないのかと、雪加は呆れたが、ここは文句を言うべきところではないか、と思い直す。この男に臍を曲げられては面倒だ。  それにこれは何も分かっていない蛮族に、作法を教えてこなかった鴎花が悪いことでもある。  雪加はやむなく彼に付き合ってその傍らに侍った。そして気を取り直し、艶やかに微笑む。 「今日は湯あみをいたしました。この身体は陛下のもの。美しく保っておくことも妾の務めでございますゆえ」 「……俺は風呂が好きじゃない」  しだれかかってくる雪加の身体を押しのけ、イスカはようやく口を開いた。  鴉夷には湯に入るという習慣が無かったのだ。  たくさんの湯を沸かすためには燃料が必要で、家畜の糞を集めて煮炊きや灯りに細々と使っていた鴉夷では、そんなもったいないことができなかったのである。 「あいつも好きじゃなかった。湯を使えば、全身の痘痕を下女達に晒すことになるからな」  イスカが鴎花のことをまだその名で呼んでいないことに雪加は気付いた。  同様に、彼は雪加の名も一度も呼んでいなかった。  その違和感には喋りながらイスカも気付いたようで、彼はこの直後自らその点について弁明した。 「俺はお前のことを雪加と呼べない。今更お前が雪加だったと言われてもぴんとこない」 「よろしゅうございます。妾は陛下が慣れてくださるまでゆっくり待ちますゆえ」  雪加はイスカと距離を置いて座り直すと、鷹揚に微笑んだ。  翡翠姫とはそういうものだ。美しい女はただこうやって笑って座っていればいい。それだけで男は崇めてくれるものなのである。  しかしイスカはそんな雪加を一瞥しただけで、興味無さげに顔をそむけるのだ。 (……あぁ、なんと女々しい男であろうか!)  あの痘痕面よりも雪加の方が何百倍も美しいのに、どうしてそれを認めようとしないのか!  そして雪加こそが翡翠姫であると判明したのに、どうしてこの男はいまだに鴎花への未練を引きずっているのだろう。思いがけず美しい娘を手に入れたと、素直に喜べばいいものを!  微笑を浮かべていたはずの頬が引きつったところへ、小寿とウカリが食事を運んできた。  二人とも声を発しない。恭しく一礼を施すと、己の務めを淡々と果たした。  侍女とはそういうものであると、雪加が教えたのだ。  下女上がりの小寿も鴉夷で育ったウカリも、翡翠姫に対する礼儀をまるで知らず、雪加は呆れかえっていた。  鴎花が侍女をきちんと躾けてこなかったせいであろう。  大体、幼い子供を連れて奉公に上がるとはどういう料簡か。  子供はちょろちょろ動き回って小寿の足元ににまとわりついては「妈妈(マーマ)妈妈(マーマ)」とうるさい。  折を見てこの二人は辞めさせ、もっとまともな女をつけるようにさせようと思っている。  彼女らは絨毯の上に膳を並べると下がっていったが、イスカは出された料理に一切手を付けようとしなかった。  料理人達が腕を振るった華やかな宮廷料理の数々をつまらなそうに眺めている。  そんな彼は、酒を注いでやるべく再び傍らへ座った雪加に対し、冷たい声で尋ねた。 「……お前にはあいつの代わりに俺の王妃になるという覚悟があるのか?」 「もちろんでございます」 「だが、鴉威の者達は王妃の身体に痘痕があると知っている。つまり痘痕がある者が王妃だという認識だ」 「その認識は改めてもらうしかございませんね」 「いや、お前にも痘痕があればいいだけのことだろう」 「ほほほほ。それは、無理な相談でございましょう。疱瘡は一度かかれば、二度とは罹患いたしませぬゆえ」  雪加は一笑に付したが、イスカは笑わなかった。ただその蒼い瞳の奥に冷淡な光を見せただけである。  イスカは膳に添えられていた長い箸を一本だけ掴むと、膝を使って半分に折った。表面には漆を塗って艶やかに仕上げてある箸も、その内側はただの木片であり、断面は当然、刺々しいものになる。 「そうだな。だが、似たようなものなら作ることができよう」  雪加が彼の発した言葉の意味を理解した時には、もう遅かった。  そしてこの直後、香龍宮にはこの世のものとは思えない絶叫が響き渡ったのである。
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