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そして視線を動かしたおかげでアビは、この牢屋の鉄格子が一本だけやたらと錆びついていることに気付いたのだ。
この時、アビと鴎花は地下牢の奥深くにいた。
アビは鴎花と心置きなく話をできるように、他の囚人が近くにいない場所へ入牢させてほしいと希望したからだ。
アビはその気になれば愛想よく振舞える男であり、更には牢屋番達とは同郷のよしみもあったので、希望通りの牢屋へ入れてもらっていた。
もちろん手鎖は無し。灯りだってちゃんと二人分の灯明皿を用意してもらっていた。
「これ、壊れるんじゃないか?」
アビは錆びた鉄格子に興味を抱いたようで、これを強く揺さぶり始めた。
この鉄格子だけが妙に錆びている原因は、天井から滲み出していた水滴のせいだった。
天井の傾きの都合などもあるのか、ちょうどその鉄格子の真上で水が溜まり、格子を伝って流れ落ちてくるようになっていたのだ。
長年かけて水に濡れ続けた鉄の棒は赤茶色に変色していて、アビが力を込めて動かすと、一番弱っていた下部が崩れるように壊れた。こうなればあとは簡単で、全身の力を込めて押し付けることにより、棒の上部の根本が外側に向かってくの字に曲ってくれた。
「牢屋破りができるな」
鉄格子一本が無くなった空間は、人がギリギリ通り抜けられるくらいの大きさだったのだ。強引に自分の頭と肩をねじ込んでみて、擦り傷を作りつつも出られると分かったアビは喜んでいたが、自主的に入牢した鴎花にとっては脱獄などありえない話である。
「そんなことをしてはいけません」
「堅いこと言うなよ。このままずっとここにいるのも飽きるだろ。体を動かさないでいると、そのうち筋力が落ちて動けなくなるんだぜ」
「……」
「じゃあお前はここに残れよ。引き止めたけど、俺が勝手に出て行ったって報告すりゃいい」
そう言って出ていったはずのアビだったが、この後しばらくして、血相を変えて戻ってきた。
そして渋る鴎花を「いや、それどころじゃないんだ。大変なものを見つけてさ……とにかく来てくれ」と無理矢理説き伏せ、この地下牢のさらに奥底へと連れて行ったのだ。
***
地下への階段を一段下りるごとに、周囲がより一層淀んだ重い空気で満たされていくのを鴎花は感じた。
寒さや、通路の灯りが乏しいせいだけではあるまい。
この牢屋に入れてこられた人達の苦しみや、呪詛の念がこの最深部に蓄積している……そんな気がするのだ。
あまりに長い階段を降りたので、鴎花はこのまま地の果てまでたどり着いてしまうのではないかと疑ったが、しかし人の作ったこの空洞には終わりがあった。
そして一番奥底、行き止まりの牢屋の中には一人の囚人が捕らえられていた。
茣蓙にくるまって石の床の上に転がった体は小柄で今にもへし折れそうなほど細く、彼の左手首は鉄の鎖で壁と結び付けられている。
鴎花達が階段を降りてくる気配に気付いて顔を上げるから、死んでいるわけではないようだ。
牢屋番達も世話だけはしているようで、食べ終えた皿は残っているし、寒さに耐えられるように着物も多めに与えられている。それでも彼には灯りすら用意されておらず、その待遇は劣悪であると言っていい。
囚人はゆっくりと上体を起こしたが、その動きは緩慢で老人のようだった。
一体誰なのだろうと、灯明皿を掲げて顔を覗き込んだ鴎花は、次の瞬間、悲鳴を上げてしまう。
「こ、皇帝陛下?! 燕宗陛下であられますか?!」
「マジか。本物かよ……」
鴎花の口から漏れ出た言葉には、傍らのアビも絶句していた。
彼は興味本位で牢屋の中を歩き回るうちに、この地下牢の主のような男を見つけたのだった。しかも声をかけてみたら鵠国皇帝を名乗るものだから、その真偽を確かめるべく、首実験のために鴎花をここまで連れてきたのだ。
「今度は誰じゃ……? そなたも華語を解するのかえ?」
弱々しい声で灯明皿の先にある鴎花の顔を見つめてくる彼は、髭が生え放題なだけではない。蓄積した汗と垢とが入り混じり、饐えた悪臭を放っている。
本当に燕宗であるのなら、年齢はまだ四十代のはずであろう。
それがなんとまぁ、ここまでやつれ果ててしまうとは!
鴎花は驚きながらも灯明を石床の上に置き、その場に平伏した。
「直問をお許しくださいませ、陛下。私は五姫様の侍女を務めておりました、鴎花と申します」
鴎花のこの言葉に、これまで虚ろであった燕宗の様子が一変した。
落ち窪んだ目を見開き、骨ばかりになった体を激しく震わせる。
「おお……なんということじゃ。かような場所で我が娘に出会うとは」
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