七章 真相の底

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「いえ、あの……私は五姫様……雪加姫様ではありませんが?」  鴎花は最初、燕宗が雪加と間違えているのだと思ったのだ。  年齢もほぼ一緒で、背格好も近い。灯明皿の微かな灯りしかないこの暗闇の中では、見間違えてもおかしく無い。  しかし彼は決して間違えているわけではないと首を横に振って言った。  そして鉄格子の間から右手を伸ばし、凸凹だらけの鴎花の顔をなぞったのだった。 「そなたが鴎花であり、その肌に痘痕を残しておるのなら、我が娘、雪加で間違いない。そなたが幼き日に疱瘡を病んだ後、皇后はそなたと乳母の娘である鴎花を入れ替えたのじゃ」  こうして鴎花は、燕宗の口から自分と雪加が入れ替えられた驚きの経緯を聞かされたのだった。  燕宗によると、この事実を知るのは皇后と秋沙(チィシャ)だけ。伽藍(ティエラ)宮に仕える者達は二人の子供の入れ替えが行われる直前に全員が辞めさせられてしまったからだ。  だが皇帝だけは辞めさせるわけにもいかない。  燕宗は感染性の高い病であることを理由に半年近くも伽藍宮への立ち入りを拒まれていたが、さすがに自分の娘が別人になっていることくらいには気付く。  それでも彼は敢えて何も気付かないふりをしたのだ。 「あの時、皇后は狂っておった。娘の体に無数の痘痕が残り、そんな醜い子では朕が愛想をつかすと思い込んでおったのだ。あの折は他の妃に見目麗しい娘が生まれた直後であったからのぉ。それに嫉妬した皇后は、朕の寵愛がそちらへ向かうと懸念したのであろう」  そんなはずがあるわけないのに、と燕宗は鴎花の手を取り、さめざめと泣いた。 「痘痕を背負ってしまったそなた自身の辛さを思えば、その父が愛想をつかすことなどあろうはずがないではないか。申し訳ないことをした。苦しみの中にあるそなたを助けてやれず、ほんに愚かな父であった」  燕宗は懺悔の言葉を繰り返し口にし、全身を震わせて涙を流すのだ。  鴎花の在りし日の記憶の中にある燕宗は、線が細い印象ではあったが、決して貧相な男ではなかった。皇帝だけに、身なりも立派で気品もあった。  しかし今、鴎花の手を握っている彼の右手は薄汚れ、皺だらけで、そしてもう何ヶ月も着替えていないらしい着物は袖口も擦り切れていて、その姿はまるで生ける屍のようであった。 「陛下……」  その悲惨な身なり故に、鴎花の胸には憐憫の情が湧き、血のつながった父であるという彼の手を強く握りしめた。そして燕宗もまた痘痕で覆われた鴎花の手の感触を確かめるように、何度も握り返してくれたのだった。 「朕が悪かった。あれは気性が荒く、朕も手に負えなんだのじゃ。下手すれば、鴎花として暮らしているそなたを殺めてしまうやもしれぬし、それならばいっそ皇后が飽きるまでこのままでいても良いかと……いや、違うな。朕は面倒ごとが嫌だっただけじゃ。後宮は一見すれば華やかじゃが、裏での争いごとが絶えぬ場所。朕は女達を宥めて回ることにうんざりしておった。ゆえに何も関与せぬことに、何があろうと見て見ぬふりをすることに慣れ切っておった。そんな朕の弱さが、そなたを見捨ててしまったのじゃ」  この干からびた身体のどこからそんなに涙があふれてくるのかと思うほど、燕宗は泣きながら悔恨の念を語った。  ゆえに鴎花も鉄格子の隙間から手を伸ばし、彼の小さな体を抱き締めたのだった。 「もう良いのです。陛下のお気持ちはよく分かりました。そんなに嘆かないでくださいませ」  確かに、自分の娘一人守れなかった燕宗は愚かだったのかもしれない。  でも、こんなにやつれてしまった人を咎められるほど、鴎花は心が強くない。  むしろ燕宗が鴎花のことをいつも気にかけてくれていたことを思い出す。  秋沙は時折「これは父上様からの下さりものですよ」と甘い菓子などをこっそり食べさせてくれたではないか。  鴎花は父親、つまり秋沙の夫に会ったことが無かったが、あれは燕宗が用意してくれたものだったに違いない。  争いごとが苦手な、温厚すぎる性分の彼には、娘に菓子をやることが精いっぱいだったのだ。 「陛下が父上様であると分かっただけで、私はもう十分嬉しゅうございます。それより陛下こそ……かような場所にずっと閉じ込められていたとは、さぞやお辛いことだったでしょう」 「これも朕が悪いのじゃ。朕は陶芸をやりたくて我慢できず、新年の宴の最中に抜け出して一人で景徳(ジンデェア)寺まで行っておった。そこで偶然、鴉夷の王と鉢合わせしてしもうてな」 「え?!」 「向こうも大層驚いておったが、とりあえず朕を縛り上げた。そして年始の変の後、改めて朕が本物であると確認するとこの地下牢に入れたのじゃ」  燕宗の説明では腑に落ちないことがあまりに多かったが、一緒に聞いていたアビは腕を組み、唸るようにして「そうか……そういうことか」と呟いた。 「皇帝が見つからなきゃ、鴉夷の軍勢はいつまでもそれを探して中原に居座ることになるからな。それで八哥はこの事実を公表してこなかったんだ」  兄の意図を読み取ったアビは、その策略に身震いしていた。
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