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「八哥は中原を治めないと鴉威に将来は無い、って言い続けていたけど、周りには早く故郷に帰りたいって意見も多かった。それだから八哥は皇帝がまだ見つかっていないっていう危機感を与えて、望郷の念を封じ込めようとしたんだ」
見つかるはずのない皇帝を探せと命じることで、鴉威の兵士は中原から離れられなくなる。
イスカは故郷の人々を欺いてまで威国を建国し、鴉威の永続を図ったのだ。
「なるほどのぉ。そして鴉威の王は偶然身柄を押さえた朕を隠すことで、朕が逃げ出したと印象付けたのであろうな。元々が陶芸好きの政務を行わぬ皇帝であるから、それを疑う者はあるまい。そして民を見捨てて逃げた皇帝であれば、人心は離れるものじゃ」
燕宗は決して暗愚ではない。
状況を客観的に捉えたその呟きに対し、アビは「まぁ、確かに……そういうことだろうな」と頷き、燕宗の考えが正しいことを認めた。
華人達が蛮族の統治を渋々ながら受け入れているのは、元の支配者が悪かった反動も一因である。
彼らが燕宗に絶望したからこそ、今の威国は存在しているのだ。
「……」
鴎花はなんと言って良いか分からなかった。
イスカはまさに一国を治めるのに相応しい男なのだと思う。ここまで徹底した手を打てる彼をそら恐ろしくも感じたし、そのために貶められた燕宗はあまりに哀れではないか。
彼の背後の石壁には、規則正しく刻まれた正の字が並んでいる。
鴎花達がかつて表宮へ軟禁されていた時と同じように、燕宗も牢へ入れられてからの日にちを壁に傷をつけることで記録していたようだ。
三十ずつで一括りになったその傷跡は何列も連なっていて、同じように幽閉生活を送った経験のある鴎花には、その一刻みごとに燕宗の深い絶望感が滲み出ているように感じられてならなかった。
「……陛下。実は四ヶ月ほど前、郭公殿下が南で郭宗として即位されました。お父上様が無事でおられることさえ分かれば、きっといかなる手段を使ってでも陛下をここから連れ出してくださいましょう」
鴎花は燕宗を励ますつもりで言ったのだが、これを聞いた彼は逆に落胆してしまった。
「郭公が皇帝に……そうか。ならば朕はますますここから出られまいな」
「どうしてですか?」
「皇帝は地上に一人で十分じゃ。むしろ朕が表に出てしまうと、皇位を巡って争うことになろう。朕にその意思が無くとも、周りがそれを放っておかぬ。そのことは郭公もよくよく理解していよう」
「そんな……父上様ですのに」
「父だからこそ面倒。そういうこともあるのじゃ。霍書には書いておらぬがな」
信じられないとばかりに目を見張る鴎花に対し、燕宗は寂しそうに目を細めた。
「ましてや朕と郭公は仲違いしておったからのぉ。あれとは親子の情など合ってないようなものじゃ。もしも朕が生きていることを、内密に知らされでもしたら、郭公はむしろ朕をこのまま地下で殺めてくれと願うじゃろうて」
「あ……」
その呟きを耳にした瞬間、鴎花の傍らでアビが息を呑んだ。
今の燕宗の言葉に何か思い当たることがあったのかもしれない。
どうしたのかと鴎花が聞くと彼は「いや……うん。俺の兄貴ってのは、やっぱり辛辣な手を打ってくる人なんだなぁと感心してさ……」と、奥歯にものを詰まらせたような言い方をして頭を掻いた。
「朕は皇位など、どうでもよいのじゃがのぉ」
長い幽閉生活で、左手にはめられた手鎖を動かす力ももはや残っていない。
燕宗は自由になる右手を使い、目に浮かんでいた涙を拭った。
「元々、皇位は兄上のものであった。なのに兄上は不慮の事故で亡くなり、朕は皇帝になってしもうた。しかし朕はただ美しい壺を作りたい……それしか願ってこなかった。こんな状況になってすら死を選べぬのは、いまだ傑作と呼べる壺を作れておらぬ未練故じゃ」
「陛下……」
燕宗の切ない想いを前に、鴎花は胸が締め付けられた。
燕宗は確かに皇帝としては無能な人物かもしれない。
だが皇帝であることを彼自身は望んでいなかったのだ。
鴎花は表宮の思惑など知らないが、恐らく祥丞相などは皇帝として無気力な燕宗を御しやすいと利用していただけなのではないだろうか。
イスカは燕宗を鵠国皇帝として捉えているが、鴎花の眼には周囲に翻弄されているだけのか弱い人物にしか思えない。
だからこそ傍らにいたアビに、つい縋ってしまったのだ。
「なんとかなりませんか?」
「うん?」
「陛下を助けて差し上げたいのです」
「お前なぁ……自分の身も助けられないのに、よくもまぁ他人の心配なんて……」
呆れかけたアビはそこまで言ったところで押し黙った。そして改めて考え込む。
「いや、俺とお前が組めばできないことも……ないか?」
アビは何かを思い付いたらしい。
掻きむしるように頭を抱えつつも、ブツブツ呟きながら策を練り始めた。
先ほどは鴎花を指して策士だと評価したアビだったが、彼こそが本物の策士であったことを、鴎花はこの後思い知るのだった。
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