七章 真相の底

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「明妃のことは息子のお前の方が詳しいんだから、俺がわざわざ語る事じゃないんだろうが、夫の息子に嫁したことが華人として受け入れがたい苦痛だったんだろうとは想像できる。その愚痴を息子のお前にぶつけた点は褒められた話じゃないが、多分あの女性(ひと)には、他に心を許せる人がいなかったんだろうな」 「……」 「遠い異国の地で華人は自分一人。言葉も分からぬ地で、どれだけ苦労したかは想像に難くない。そんな時、生まれてきたお前が、自分が教えたとおりの綺麗な華語を話してくれて、それにうっかり甘えたい気持ちになったとしても、無理からぬことではないかと思うんだ」  兄の意見に対し、アビは頷くでも否定するでもなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。  母が鴉威に窯業を起こそうとしていたという話は初耳であっても、それを裏付ける行動はたびたび目にしていたのだろう。  遠い異国に嫁ぐことは彼女の意志ではなかったはずだが、それでも鵠国と鴉威の架け橋となれ、という祖国の意図に明妃は忠実に従った。  イスカら次世代を担う子供達に華語を教えてくれたのも、鴉威と鵠国の距離を縮めたいと願ったからだ。  それでもアビは母を憎んだ。鴉威に馴染もうとしない母を詰り、自分に華人としての勉学を押し付けてきた母を恨んだ。  そうしなければ、彼の心がもたなかったからだ。なぜならば……。 「……俺はその母を(あや)めた」  独白は唐突だった。  イスカは弟の眼から一筋の涙が零れ落ちるのを目の当たりにすることになる。  漆黒の瞳から溢れて出て褐色の肌の上を伝って流れていく涙は、華人とも鴉夷の民とも同じ、透明で熱い液体であり、アビは次々溢れてくるそれを拭うことも忘れて、幼い日の出来事を語った。 「あの日、疱瘡にかかって寝込んでいた俺に向かって母が言ったんだ。今朝、七哥(チーグェ)が命を落としたそうだよって。でもそれが俺のせいだって言うんだ。おかしいだろ? 俺は七哥より後で熱を出したんだから、言いがかりもいいところさ。でも母にとっては理屈なんて関係なかった。やっぱり俺の存在が災悪を招いているのだろう、なんておぞまい事をしてしまったんだ、っていつものようにくどくどと……そうだよ。いつものだから、俺は聞き流せばよかったんだ」 「……」 「なのに俺はあの日に限って口答えしてしまった。『俺に責任を擦り付けるなよ。そんなの、鴉威の風習だから仕方ないって受け入れた、自分のせいじゃないか。誇り高い華人ならこんな時はどう振舞えばいいか分かっていたのに、何もしないで周囲に流されちゃった自分が全部悪いんじゃないか……!』」  アビは込み上げてきた強い衝撃を抑えきれず、体を大きく前後に揺らした。  堪らずイスカは石段から立ち上がり、弟の身体を支える。 「翌朝、母は喉を突いて死んでたよ。俺の枕元で蹲るようにして、冷たくなってた。辺りには真っ赤な血が飛び散っていて、こんなの何かの間違いじゃないかって、俺がちょっと肩に触れただけで横倒しになった。そうしたら乱れた黒髪の下から、見開いた目の玉が俺をギロッと睨みつけていて……」 「もういい、分かった。落ち着け、アビ」  肩を抱き締めてくれる兄の胸に頭を押し付けるようにして、アビは九歳だった当時に戻ったように泣きじゃくっていた。  いや、その時は流せなかった涙が、今になって蘇って来たのかもしれない。 「二日後、俺達の姿が見えないことに気付いた親父がやってきて見つけてくれたけど、病死ってことにしてこれを隠したんだ。鵠国の皇帝の養女として嫁いできた女をむざむざと自害に追いやったなんて、公表できないからな。それで俺には全部忘れろって言った。でもさ……そんなの無理だよ。獲罪於天、無所禱也。罪を天に()れば、(いの)る所無きなり。母を追い詰めた俺は、拭いようのない罪を犯したんだ。俺はもう、生ある限りこの罪から逃れられない……」  華人達の道徳書である霍書(フォシュ)の一節を引用したアビは、イスカにしがみつくようにして嗚咽の声をあげながらも「妈妈(マーマ)……」と漏らしていた。  それは華人の幼い子供が母を呼ぶ言葉。  母や華人を憎むことで、心の均衡を保って来たこの弟は、本当は誰より母を慕っていたのだろう。  その母を自分自身が追い詰めてしまったことを心底悔やんでいた。  自らの命を軽んじるような行いも全て、この罪の意識から来ていたのかもしれない。  彼は頑なに自分自身を呪い続けていたのだ。
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