七章 真相の底

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***  それから長い時間が過ぎ、鴎花は燕宗を連れて戻ってきた。  長い幽閉生活で足腰が弱ってしまった燕宗を歩かせるのは至難の業であったらしく、鴎花は彼の肩を抱くようにして一歩ずつ懸命に階段を上っていた。  それだから足音がしてからイスカ達のところへたどり着くまでに時間がかかり、その間にアビも涙を拭い、気持ちを落ち着かせることができたのだった。  心身ともにくたびれ果てていた燕宗は、自分をこんな目に遭わせたイスカに対し悪態をつくことも無く、むしろ陶芸を続けることを許してくれたことに感謝していた。  前王朝の皇帝を解放することの意味の重さを、彼はよく理解しているのであろう。  イスカは、鴎花に代わってアビに燕宗を背負うよう命じた。この調子で足腰の弱った彼を地上まで歩かせていたのでは、夜が明けてしまう。背負った方が早い。 「アビ、お前は鴉威の地まで燕宗を連れていけ。到着後の見張りもお前に命じる。絶対に中原へ戻って来ぬように目を光らせておけ」  燕宗にも聞かせるため敢えて華語で命じたイスカに対し、アビは素直に頷いた。  胸につかえていた母への想いを吐き出せたことで、気持ちもいくばくかは晴れたのではないかと思う。  イスカが下したのはかなり厳しい命令であったにもかかわらず、この異母弟は憑き物が落ちたかのようにすっきりした表情をしていた。 「餞別に、お前には身の回りの世話をする女をつけてやろう。いや、逆に世話を焼いてやらねばならぬような気がするが」 「それって……」  目を見張ったアビがその先の言葉を発するのを、イスカは首を横に振って制した。  鴎花には後で説明してやるつもりだが、今はまだ聞かれたくなかったのだ。昨日から今日にかけて、いろいろなことがありすぎた。もう少し落ち着いてから話をしたい。  イスカは牢屋番達を呼び、鴎花を一足先に香龍宮へ連れて行くように命じた。  そして入れ替わりに雪加をこの場へ連れてこさせる。  それからほどなくして鴉威の兵士二人に両脇を抱えられるようにして彼女は連行されてきた。  今はもう絹の衣ではなく、下女が身につけるのと同じ、木綿の粗末な衣を着ている。  更には顔の右半分を包帯で覆っており、その目は虚ろだ。地下牢へ連れてこられた上に、国王とその弟、さらには燕宗まで目の前にいるというのに、まるで感情というものを見せなかった。  それは折れた箸で突き刺された頬が痛むせいだけではないだろう。  翡翠姫としての自負を支えていた美貌を傷つけられ、心が塞ぎきってしまっているのだ。  この傷は自分がつけた、とイスカは華語で淡々と語った。 「俺の王妃としての自覚がどれほどのものであるか、確認したんだ。しかしこの女には王妃としての気概など無かった。血筋と美しさを誇るだけで、まるで実が無い」  連行してきた二人が彼女の腕を離すと、雪加は崩れるように石床の上に膝をついていた。  アビは燕宗を背負っていたものの、咄嗟に彼女に駆け寄る。  そんな弟の姿に、イスカは大きく頷いた。 「だからこの女はお前にやる。連れていけ」 「……」  アビはこの時、すぐに返事をしなかった。  目線を下に向けたままイスカの発した言葉を咀嚼し、その身に深く浸透させる。  そして再び顔を上げた時には、全てを理解したと言わんばかりに満足げに頬を綻ばせて、兄を見上げたのだった。 「……なるほど。こいつは俺への罰だな」 「そういうことだな。こんな手間のかかる女を娶ると、お前は絶対に苦労するぞ」  イスカがニヤリと笑うと、アビもつられて笑った。そして背中の燕宗を背負い直すと、今度は鴉威の言葉で言ったのだ。 「実はこの茶番劇では、俺からの願いもあの王妃様と同じで二つあってさ」 「うん?」 「それは俺の罪をきちんと罰してもらうことと、この手のかかる女を俺に欲しいってこと」  俺も物好きだよなぁ、と言ってアビは笑った。  泣いているようにも見えるその笑顔は年相応にあどけなく、イスカの胸を締め付けた。  しかし国王としては、威国に仇為すような真似をしたこの弟を無罪放免とするわけにはいかなかった。 「ありがとう、俺の願いをどちらも叶えてくれて。やっぱり八哥は最高だ」  最後は感謝の言葉で締めくくった弟は雪加を促して地下牢の階段を上り、そして旅装を整えると、夜が明ける前に木京(ムージン)を離れた。  これから三人が向かう鴉威の地は遥か遠い。  そして燕宗が永久追放であるなら、アビもまた同じということ。  もう二度と会うことも無いであろう弟の騎影が北へ向かって旅立っていくのを、イスカはいつまでも見送ったのである。
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