七章 真相の底

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「お前はあの男との思い出を楽しそうに話していたし、あの男が作った茶器も大切にしていた。それなのに殺めたら、お前は俺を嫌うだろ? それが怖かったんだ」  今や威国の民からも、河南(ファナン)に住む鵠国の者達からも軍神の如く畏れられているイスカに、まさかこんな情けない顔をさせてしまうなんて。  鴎花も罪な女になったものだ。 「まさにアビに言われたとおりだ。俺はお前と暮らすようになってから腑抜けたらしい。殺すべき男も殺せないとは情けない限りだ」  苦みを滲ませるイスカは、潔癖な面がある。  中原の王たらんと努力を惜しまない彼は、自戒の念も強く、だからこそいつでも政務を優先し、私情は後回しだ。  そんな彼が、鴎花に嫌われたくないというだけの理由で、燕宗を殺せずにいたとは……。 「……後悔、しておいでですか?」 「いや、それはない」  イスカは即答してくれたから、鴎花はにっこり笑った。そして彼の傍らへ移動し、甘えるようにもたれかかる。  鴎花も父を無慈悲に殺すような人を愛したのでなくて、本当に良かった。  イスカはそんな鴎花の頭をぽんぽんと撫でながら、少し低い声音で告げた。 「……あのな、お前の乳姉妹はアビと一緒に鴉威へ行かせた。もう中原へ戻ってくることはない」  それは覚悟していたことではあったが、実際に宣告されると、思いの外重く心に響く。  雪加とは生まれてからずっと一緒で、二人は表と裏の関係だった。大輪の芍薬のように華やかに咲き誇る雪加の影で、小さくなっていたのが鴎花で。  気持ちがすれ違うことはあったが、離れてしまうと、片割れがいない寂しさの方を強く感じる。  俯いてしまった鴎花に、イスカは更に言葉を重ねた。ここからが本題なのだ。 「俺にとっての翡翠姫はお前だけなんだ。天帝(ティェンディ)の血を引いていなくとも、俺にとってお前が必要なことは間違いない」 「陛下……」  この瞬間、イスカが鴎花の素性について何も聞かされていないのだと分かった。  鴎花は弾かれたように顔を上げ、どう説明しようかと思案を巡らせたが、これに対しイスカは拒まれると感じて焦ったようだ。  反論させないよう、鴎花の頭ごと抱きしめた。 「構わぬ。天帝の娘としての証があるわけでもないのだから、血筋などどうとでも偽れるんだ。実際のところ、お前はこれまで俺の王妃に相応しい役目を果たし、その出自を疑う者などいなかったじゃないか」 「それは……」 「いいか。俺はいつ起こるかも分からない伝承なんかの為に、お前を手放すのは納得いかない。だからこのまま、お前には翡翠姫を名乗ってほしい。そしていつまでも俺の側にいてくれ」  鴎花の心は大きく揺れてしまった。  ここまで言われて実は私が……などと言えるわけがないではないか。  いや、真実を明かしたくなかったというのが本当のところか。  今まで鴎花はイスカの側にいるため、翡翠姫であろうと、必死に振る舞ってきた。  しかし彼は鴎花が翡翠姫でなくても側に置いてくれるというのだ。  その気持ちが嬉しくて、本物の翡翠姫であることなど、些末な話であるように感じたのだ。  真相の底にあったのは、こんなにも満たされた気持ち。鴎花は鴎花のままでもイスカの側にいていいのだ。 「……そういえば、お前の一つ目の願いはあの男の解放だったが、二つ目の願いとは何だったのだ?」  ふと思い出したイスカに問われ、鴎花はあぁそうでした、と弾かれたように手を打った。  伝えることを忘れていたわけではない。  むしろ一刻でも早くイスカには言いたかったことである。  いろいろありすぎてすっかり遅くなってしまったが、鴎花は改めてイスカの大きな手を握った。 「地下牢にて、今後なにかあれば私の命を差し上げますと申しましたが、それは今しばらくお待ちくださいとお願いするつもりでした」 「うん?」 「あと半年と少し。そうすれば、身二つになるのです」  鴎花の言葉に、イスカは戸惑いを貼り付けたような顔をした。  ぬか喜びになってはいけないと咄嗟に自制したのだろう。首を横に振って、何度も今の鴎花の言葉を反芻する。 「悪い。華語が難しくて分からん。それは要するに……」 「はい。身籠りました、陛下」 「でかした!」  イスカは膝を打って喜んだ。二日間の徹夜で彼の全身を覆っていたけだるさも吹き飛んでしまったようで、一気に歓喜の渦に包まれたイスカだったが、彼はこの直後、表情を険しくした。 「そういうことはもっと早く言え! ……って、いや、違う。馬鹿か、お前は!!」  喜んだと思ったら、今度は青筋を立てて怒り出す。随分と忙しい人である。   「あんな冷たい牢獄に入って、体に障ったらどうするつもりだったんだ!!」 「私も気が動転していたのです。それに陛下を謀っていた罪は重いです。せめてこの子だけでもお許しいただくためには、自ら罪を認め、殊勝に振舞うしか手がないと思い……」 「あぁそうだな、この罪は重すぎるぞ。俺は大事な王妃と子供まで失うところだったんだからな」  破顔したイスカは鴎花を抱き締めた。  鴎花もまた、彼の腕の中で喜びに体を震わせる。  イスカの期待に応えることができた安堵と幸福感は、何物にも代えがたい。  これから彼とお腹の子供と共に過ごす、平和で暖かな日々が訪れるのだ。鴎花はそんな将来を夢想し、激しく胸を躍らせるのだった。  
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